湖東・湖北 ふることふみ 55
高野瀬氏

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 豊郷町 2019年4月12日更新


高野瀬城趾の碑(犬上郡豊郷町高野瀬640)

 近江は日本史上もっとも長い期間重要な経済大国だった。それは政治の中心が関西であったためであり、その関西圏から東国へ向かう場合には近江を通過しなければならなかったからだ。細かい話は別の機会に紹介するが江戸時代より前は日本の経済の半分は近江を通過している。
 その近江でも交通の要となるのは琵琶湖の水運と東山道(中山道)だった。東山道に接する領内には全国規模の経済が通ることになった。このため領主たちは街道に関所を設けて通行税を徴収するようになる。一件の金額はそれほど多額ではないが往来が激しいほど多くの収入を得るようになり、その利権を巡っての争いも多発するようになった。
 そのような中で平将門の首が落ちた歌詰橋に近い地域を治め東山道の下枝に関所を作って関銭50文(通行料約500円)を徴収していたのが高野瀬氏だった。佐々木氏の末裔、または藤原秀郷の末裔とされている一族が現在の豊郷町高野瀬に館を構えて高野瀬氏を名乗る。やがて宇曽川の水運も抑えるようになり川沿い南岸の肥田に出城を築き城下町も形成し北にも越川城を築城して一族の久木氏が城主を務めた。また一説には前回紹介した平流城も高野瀬氏が治めた時期があったともいわれ、宇曽川流域の広い地域を支配していた様子が伺える。
 高野瀬氏が高野瀬に落ち着いたのは鎌倉時代後期とされている。しかし、肥田町の金毘羅神社に養和元年(1181)肥田城主高野瀬備前守が宇曽川の安全のために城内に金毘羅宮を勧進したとある。鎌倉時代に入る直前には肥田城が築城され高野瀬氏が城主をしていたことになり、平安時代末期には高野瀬氏は高野瀬から肥田を領していたことになる。
 また明との貿易を行い紙や瓜の生産も行っており、瓜は天皇に献上されていたともいわれている。琵琶湖から宇曽川を上り肥田で荷揚げした物資が高野瀬から東山道に運ばれ、またその逆の経路を通るための道は肥田街道と呼ばれていたらしい。高野瀬氏は確実に有力な国人領主であった。
 しかし、応仁の乱により高野瀬氏に陰りが見える。近江では北の京極氏(東軍)と南の六角氏(西軍)が激しい戦いを繰り返し、境目に近い高野瀬氏も戦いに巻き込まれる。高野瀬氏は六角氏に味方していたが、六角氏の敵は京極氏だけではなく都の覇権争いにも加わっており、細川氏とも戦い足利将軍家から攻められ、居城観音寺城を放棄することもあった。すると京極氏が南下し高野瀬氏は危機に陥る。
 このような情勢の中で高野瀬備中守(頼定?)は川瀬氏ら近隣の国人領主と共に六角氏に反旗を翻すが、この反乱は六角氏が肥田城を攻め備中守が陳謝することで終息する。六角氏にとって肥田城はそれほど落としやすい城という認識しかなかったのかもしれない。そして高野瀬氏は六角氏に命じられるままに京極氏やその後を継いだ浅井氏と戦い疲弊し続けるのだった。

古楽

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