湖東・湖北 ふることふみ 53
歌詰橋と将門伝説

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2019年2月13日更新

歌詰橋の碑

 中山道の宇曽川に架かる橋は「歌詰橋」と呼ばれ、その名前の由来はよく知られたものであるが改めて紹介したい。
 天慶3年(940)、平将門は関東で新皇を自称し京都の朝廷から独立した国家を作ろうと挙兵した(平将門の乱)が、藤原秀郷に討たれた。秀郷は京に凱旋するため東山道(後の中山道)を進んでいると将門の首が追いかけてきて宇曽川の辺りで秀郷に勝負を挑んできた。秀郷は首だけになった将門に対して冷静に和歌の勝負を提案するが、将門の首はこれに答えられず力尽きた。秀郷は近くに将門の首を葬った。それ以来将門の首が歌に詰まった橋としてこの橋を「歌詰橋」と呼ぶようになった。
 と、いうものである。将門の首はこれ以外にも日本各地あちらこちらに飛んで行ってはその場に落ちて祀られることになる。特に有名な場所は皇居近く大手町の首塚で、この地の伝承では京で晒された首が胴体を求めて関東まで飛んで行った途中で力尽きて落ちた場所とされている。しかし、この時点で歌詰橋と大手町の首に大きな矛盾が生じてしまう。歌詰橋の伝承では首は関東から追いかけてきて宇曽川まで飛んで近くに葬られるが、大手町の首はいったん京まで運ばれた後で関東まで飛んで行く。他の地域の将門伝説を調べてみても一本線に繋がる伝承が見えてこないのである。
 井伊家に関わるお話として、井伊直虎の許婚だった井伊直親が今川氏真の招聘に応じ駿府へ向かう途中、掛川城下において朝比奈泰朝に殺害される。このとき、直親と共に殺害された人々が19人だったと言われていてこの辺りには「十九首」という地名が今も残っているが、掛川市では「平将門以下19名が討たれた場所」として紹介されているのだ。私は、掛川藩に直親の孫井伊直勝(彦根城を築城した直継)とその子直好が入っていることから直親が亡くなった地を荒らされないためにわざと将門伝説に置き換えてこの地の保護をしたのではないかと考えている。日本史の中で怨霊や怪談話が流行った時代は数えるほどしかないが人間は漠然とした恐怖をどの時代でも抱えている。その中でも平将門の怨霊は時代の古さに加え中央政権に反発した武将としても民衆に対する知名度が高く、現在よりも非科学的な現象が当たり前だった時代に怨霊による土地の保護は効果があったのではないだろうか? 大手町も江戸時代は大老四家の一つ酒井家の屋敷であり、それだけでも土地の重要性は無視できない。
 すべての伝承を調べたわけではないが、将門伝説の場所には掛川の十九首のように作為的な伝承を感じずにはいられない。その観点で歌詰橋を調べると、一説には将門の首を葬ったと伝わっている塚が古墳であるとの指摘もあり将門伝説を利用しそうな話がない訳でもない、そしてこの首はのちに目覚めて新たな伝承を残すのである。

古楽

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