失われた風景

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年11月6日更新

題目岩

誓いの御柱

石造七重層塔

 多景島には失われた風景が二つある。ひとつは、「題目岩」、もうひとつは「誓いの御柱」が建つことによって失われた。
 多景島は、犬上川河口の沖合約5キロ、湖の真ん中に浮かぶ島である。長辺約240メートル、最大幅約80メートル。花崗岩が湖底から屹立し岩肌がむき出しになっている。「竹島」「嶽島」と記した時代があったという。今は、角度によって多様な姿を見せることから「多景」という字をあてる。
 島には高さ約10メートルの「南無妙法蓮華経」の文字が彫られた「題目岩」と、高さ23メートルに及ぶ「五箇条の御誓文」を記した「誓いの御柱」があり島の象徴となっている。
 多景島は、島全体が日蓮宗見塔寺の境内である。寛文元年(1661)、長浜妙法寺の日靖上人が彦根藩3代藩主井伊直澄の援助を受けながら島内に見塔寺を開山。日靖は、3年の歳月をかけ「南無妙法蓮華経」の文字を彫った。井伊直弼が桜田門外で暗殺された時、「題目岩」は鮮血をにじませたという話が伝わる。
 この題目岩は、経年による劣化と本年の風雨によって今年8月3日未明、崩落。二度と見ることのできない風景となった。
 そびえ立つ「誓いの御柱」は五角柱の青銅製の塔であり、それぞれの面に「五箇条の御誓文」が彫られている。
 「滋賀県警察部長水上七郎の主唱によって、大正13年(1924)9月に起工、難工事の末14年8月に竣工、翌15年4月15日に除幕式を迎えている。」(滋賀県の近代化遺産ー滋賀県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書ー)。70万余人から10万余円の醵金を集め、皇室からも護下賜金(ごかしきん)を賜って建設された。
 「五箇条の御誓文」とは「慶応4年(1868)3月14日、明治天皇が宣布した明治新政の五ヵ条の基本政策(広辞苑)」である。
 御誓文発布から56年後、大正デモクラシーが華やかに開花する最中、昭和ファシズムの揺籃期である。全国各地の国民諸階層を皇国精神のもとに再び和合させるため、各地に「誓いの御柱」と名付けられたモニュメントが造られた。地理上日本の中心であるといわれ、古来より「信仰の島」として聞こえる多景島の御柱はその大きさからして、全ての「誓いの御柱」の中心だった。第2次世界大戦後、大部分の「誓いの御柱」は撤去されたが、彦根市と秋田県男鹿市の御柱は残った。
 「誓いの御柱」以前には何があったのか……。
 直澄公が、父・直孝公の供養のために建てた「石造七重層塔」(高さ8メートル)があったのだ。日靖上人が湖西の荒川で造らせ、万治4年(1661)島に運ばれたと伝わっている。
 明治維新後、多景島は国の所有となり、「誓いの御柱」を建てるにあたり石造七重層塔は現在の場所に移された(誓いの御柱と題目岩の間辺り)。江戸時代の多景島は「石造七重層塔」が湖岸から見えていたのである。
 失われた二つの風景、現代から歴史を遡るとき、どこまで遠望できるだろうか……。更なる興味が湧いてくるのである。
 とはいえ、「石造七重層塔」と「誓いの御柱」の二つの塔を見ることができる。まさに「見塔寺」の名に相応しいが、その名の由来はまた別なところにある。いずれまた話したいと思う。

雲行

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