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天誅組の変

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年9月12日更新

櫻井寺(奈良県五條市須恵1-3-26) 天誅組本陣跡の碑

 桜田門外の変の2年後に幕府内の政変から彦根でも政変が起こり尊王攘夷派の岡本半介が実権を握った。これにより直弼に近かった家老は失脚し、長野主膳と宇津木六之丞は斬首される。しかし幕府は桜田門外の後に直弼生存という虚偽の届けを提出した彦根藩に10万石減封と京都守護罷免を命じる。そして堺港警護を始めとする多くの手伝いを藩に命じたのである。彦根藩士の中には脱藩して幕府に訴え出た人物もいたがそれでも幕府の頑なな方針が緩むことは無かった。全国で彦根藩が挙兵するとの噂も流れ長州藩の伊藤博文らが彦根に潜入しようとしたが入る事ができず多賀に逗留した。この時に伊藤が潜んだ蔵が今も多賀大社に移築され残っている。
 やがて彦根藩の使者と伊藤らが会い、彦根藩と長州藩の中の混乱はなくなる。そして、土佐藩も谷干城らが彦根に来て彦根藩と土佐藩とも藩士レベルでの交流が始まる。彦根藩士はここから上京し尊王攘夷の志士と交流するようになったのだ。土佐藩は武市半平太の結成した土佐勤皇党が大きな政治権力を握っていたが、実は桜田門外の変の前は水戸藩浪士が勤皇党を味方に入れようとして坂本龍馬に面会していたため、この時期の彦根と土佐の交流を知ったとき私は多少の衝撃を受けた。
 さて、幕末の混乱の中で、天皇に対する政治的価値が上がると京都にいる志士たちは天皇を利用する計画を立てるようになる。孝明天皇の典侍中山慶子(明治天皇の生母)の兄中山忠光は土佐勤皇党の吉村虎太郎らと図って孝明天皇の大和行幸を画策。これを天誅組の変と呼ぶが、彦根藩は吉村に鉄砲二十挺を密かに送っているのだ。
 吉村ら天誅組が天皇を迎えるために大和で挙兵し五条代官所を襲って代官を殺害し隣接する高取藩に恭順を勧告し高取藩もこれを受け入れたが8月18日の政変が起こり、会津藩や薩摩藩が京都の中心になると大和行幸は幻となったのだった。そして幕府は彦根藩に対して天誅組追討令を出した。彦根藩は家老の長野伊豆や貫名筑後が兵を率いるが、彦根藩の外交を担当していた谷鉄臣は長野らに「今回の戦いは負けてはいけないが、勝負をしない方がいいし、功名を挙げてもならない」と伝えている。勤皇藩になりつつある彦根藩が勤皇の志士と戦うことを避けようとしたのかもしれない。
 しかし、実際に戦いが起こるとそれを避けることは難しく激しい砲撃戦を始めとして天誅組が彦根陣営に斬り込んだことによる白兵戦も行われ、天誅組の幹部である那須信吾を討ち取りある程度の手柄をたててしまったのである。
 天誅組の変は、規模は小さいが勤皇の志士が代官所を襲い高取藩を恭順させたという歴史的意味は大きい。また、彦根藩の藩論が勤皇へと変わろうとする時期の貴重な見解を知ることができるのだ。

編集部

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