ソラミミ堂

淡海宇宙誌 XXXXV 木の目魚の目花の鼻

このエントリーをはてなブックマークに追加 2014年3月7日更新

イラスト 上田三佳

 冬の濠ばた、また川沿いの並木道など歩くとき、すっかり裸のケヤキの枝にぶら下がるヤドリギの茂りかたにちょっと不思議を感じます。左右に居並ぶあのケヤキでもあのケヤキでもないこの一本のケヤキの枝にわさわさと、あおあおとまるぼんぼんと群がっている。ちょっとケヤキが気の毒なほど。
 同じケヤキという名前の、なのにあの木でも、あの木でもなく、どうしてこの木なのだろう。
 けれども多分、それはべつだん不思議でもなんでもなくて、あの木でもまたあの木でもなくこの木でなければならないいわれが何かあり、あの木ともこの木とも違う、わずかにも決定的な違いがこの木にあって、木が木を見る目で見てみたら、そういう違いは、人の一人ひとりが違うのと同じくらいに明らかな違いなのかもしれません。
 偉い詩人がむかし「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」と言いました。普通には「松のことをうたいたければ直接松に向き合うがいい。竹なら竹に向き合うがいい」という意味なのかと思います。けれどもじつは偉い詩人は「松になって見よ、竹になって聞け」と言っているのじゃないかしら。
 木の目で木が木を見るように、花のお鼻で花がお花を嗅ぐように、見たり聞いたりできるなら、自然はほんとに繊細で、個性に満ちて、美しい。腑に落ちることもいっぱいあるでしょう。
 木の目魚の目花の鼻。でもその使い手はひとり詩人に限らない。「漁のしかたは魚に学び、網は魚の目になって編む」といつか漁師が言っていたのとそれは根っこが同じです。
 木になって、魚になって見たものを、感じたものを言葉で編めば詩になるのだし、糸で編んだら漁具になります。

スポンサーリンク
関連キーワード