淡海宇宙誌 XXXIV いただきますというゴール
先日、田舎の観光についての会議に招かれました。とりわけ新たな「食」の特産物をどう創るかという話。
豊かな自然と深い歴史と文化があって、食べ物だって素晴らしいものがたんとある。
「あれがある」「これもある」「こんなのもありますナ」「そんならこれも」と数え上げたら、テーブルの上はもういっぱい。
そんな様子を見ていたら、「このテーブルには食べ物はたくさんあるが、食事がないな。そこが工夫のしどころだな」とひとり合点がいきました。
食べ物だけを見るのではなく、その食べ物につらなるさまざまな事を見つめる。「モノ」という結果ではなく、「モノ」にまつわる道行き(プロセス)だとか時とか場とかをどうしてみんなで味わうか。それが大事と心得ました。
「食事」といえば今では家庭や食堂の食卓周りで「いただきます」から始まるように思うけれども、それはもう「食事」のゴール付近です。
「食事」というのは食卓ではない別のところの、「いただきます」のもっと前から「ごちそうさま」のさらにあとまでつながっている。
そういうことが田舎に行くと、あるいはかつての暮らしを聞くとよくわかる。
我が家の前を流れる小川で魚をつかみ、野山に出かけて春の菜を摘み、田畑で米や野菜を育てるという、身近なスタート地点から始まるひとつらなりがまさに「食事」でありました。
いざなって里山で人をもてなす「客山」や田舟で繰り出し「ジュンジュン」をする「舟行」なんて、素敵な「食事」だったなあ。そこにある景色も時間も「食事」につらなる田舎の特産なんだなあ。
「食べ物」の数や豪華さを誇るより、「食事」の豊かさ楽しさをこそ大事にしたいと思います。