淡海宇宙誌 XXXII ふたりでさんぽ
幼いわが娘とさんぽしていると、娘につられて、道端のほんのちいさなものにも、道すがらのちょっとした出来事にも、ひとつひとつに眼をとめ、足をとめて、驚いたり、感心したりするようになります。
ほらほらテルハ、こんなところに、こんなものがあるよ、あんなところで、だれかがあんなことをしているよ、と。
娘とのさんぽはだから「散歩」でなくて「讃歩」です。
あるく道々目に入るもの、耳に届くもの手に触れるもの、それらをみんな讃えてあるく。
おおきいものは、そのおおきさを、ちいさいものはそのちいささを、讃えてあるく。
青いものは、その青さ、黄色いものなら、その黄色さを、たたえてあるく。
こわれたものは、そのこわれかた、汚れたものの、その、汚れかたまで、たたえて、あるく。
なーんにもなければ、あー、なーんにもないねえ、とか言いながらのふたりの讃歩はじつに愉快です。
大寒のきょうこのごろの讃歩のたのしみは、浜や田んぼや、ひろびろとした場所に立ち、冴えわたる空気のなかに、雪化粧した伊吹山を眺めることです。
真っ青な空を背景に白く清く輝いているのも素晴らしいし、夕日に映えて全体がトキ色に染まっているのも、なんとも言えずいいすがたです。
大きな山や湖をしばらく黙って見ていると、見ている心が、むくむく山に、ひたひた湖になっていきます。
ね、テルハ、「やま」だとか、「みずうみ」という名前はね、いま目に見える眺めに付けた名前じゃないよ。目の前のもののかたちに付けた名前じゃないんだよ。
むくむくもたげるこの心、ひたひた満ちるこの感情を「やま」といい、また「みずうみ」というんだよ。