ソラミミ堂

育つわかれ

このエントリーをはてなブックマークに追加 2010年2月23日更新

 たがいにみとめあった友とわかれるのは、たのしい。
 変なこと言うなあ。でも僕はそんなふうに考えているのです。
 なぜそんなふうに考えているのかというと、人とその友とは、あす出会うためにきょうわかれるのだ、ということが、僕にもだんだんわかってきたからです。
 あす出会うためにきょうわかれる。そういうわかれ方ができる者どうし——友というものについての、なかなかうまい定義じゃないかと思っています。
 さかさまに、あすわかれるためにきょう出会っている、というようなことをしている人がいたら、それは、きょう人をだましてあしたは姿をくらまそうとたくらんでいる人かもしれない。そんな人がほんとうにいるとは、僕には思えないけれど。
 あす出会うためにわかれる。そのあすというのは文字どおりのあすでもあるが、僕がいま、現に体験しているのは、十年あしたの、出会いのたのしさです。
 卒業して十年も経つ頃というのは、自分も、そして友の多くも、仕事にも慣れ、周りを見渡す余裕ができるのでしょうか。それなりに浮き沈みも経験している。良くも悪くも、自分の力量についての見極めがつきはじめる。そうすると、もっと自分を高めてやろうという気持ちが起こる。あるいは、自分ひとりではできないのだから、誰かと力をあわせていこうと思う。
 もしかしたら、自分の思い描いていた十年後とは、こんなものだったのだろうかという悩みが生まれているのかもしれない。
 どういうわけなのか、ほんとうのところはわかりませんが、このところ、僕の周りで十年あしたにめぐってきた、特別な出会いがいくつも起こっています。
 やろうぜ。やろうよ。あの時みたいに。君はいま、何ができる?
 隕石どうしが集合して、惑星ができるみたいに、何かおもしろいかたまりが、できようとしているのでしょうか。
 仕事がら、毎年毎年、春来るごとに、たくさんの若い友を見送る立場にいるわけですが、きょうのわかれが、どんな出会いになるだろうかと想像したら、いずれくる出会いのあすが僕はとってもたのしみなのです。
 若い友らはその日には、わかれのきょうをさびしがるでしょう。でもね、きょうのわかれはきっと育つよ。きょうのわかれは、十年あしたの大きな出会いの種なんだ。その種を育ててくれる友がいるよ。と、僕は彼らに、そんな話を、はなむけとして贈ってあげようと思います。

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