ソラミミ堂

僕の三枚おろし ―前編―

このエントリーをはてなブックマークに追加 2009年10月25日更新

 秋の夜長。今夜は人間を三枚におろしてみましょうか。
 と言っても、季節はずれの怪談をはじめるわけではありません。三つの観点から自分という人間を反省してみようという話。
 人間を三枚におろしたら「からだ・こころ・たましい」に切り分けられると僕は思います。
 「からだ」というのは肉体としての僕、僕の物質性。「こころ」というのは、関係としての僕であり、僕の社会性。そして「たましい」、これは時間存在としての僕、すなわち僕の歴史性。
 切り分けた「からだ・こころ・たましい」の現代の在りようをそれぞれ反省してみます。
 まず僕らのからだの大きさですが、身長およそ四万キロメートル、地球大です。日々の食べ物、これらは地球のいろいろな場所から分けてもらっていますので。遠くは地球の裏側からも。
 次にこころはどうでしょうか。
 こころは百面相ですね。家庭での自分、学校での自分、職場での自分、仲間といる時の自分、独りの時の自分。一人の人にもいろいろな顔、いくつもの自分が隠れています。
 そして「たましい」という時間軸は、先祖から子孫へという系列がこれにあたると思うのですが、例えば数年前からは、僕らは死んだら「千の風になって」今日はこちら、あすはあちらとあまねく吹き渡るのだという説が、広く浸透しているようです。
 とてつもなく大きなからだの百面相——今生きている自分という人間の実のすがたをそんなふうに想像するとき、その一方で、この実態に追いつけないでいる自分があるのを痛感します。
 たとえば、自分のからだはこんなに地球規模なのに、毎日の「いただきます」の宛て先を自分はどこにしているだろう、というように。地球の裏の大地を想い、作物を育ててくれた人の顔、その人たちの生活を、食卓の上にありありと描いてみることができているのか。自分の感謝はどこまで世界化しているか。
 それどころか、大地から食卓までの遠さのあまりに、いま目の前にある食べ物や、それを作ってくれた人たちのことを、疑ってかかっていはしないか。
 大地から食卓までの遠さのゆえに、その間に、嘘や偽りが入り込む隙があり、実際にそんな事件が世にあるけれど、だからこそ、僕らは僕らのからだに見合った想像力を養って、信じる力を通いあわせていかなくては。
 大きなからだに恥じないような、大きな感謝を持たなければと思うわけです。  (つづく)

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