ソラミミ堂

存在というまもり

このエントリーをはてなブックマークに追加 2009年10月11日更新

 伊吹山のふところに抱かれた水源の里で、仲間たちが「たからの地図」づくりを始めました。
 そこに記された「たから」とは、僕たちの社会にとって、もっとも大切なもの。それどころか、それがなければ、僕たちの社会自体が成り立ち得ないもの。
 おわかりですね。地図に記される「たから」とは、「人」です。
仲間たちはいま人というたから、すなわち「人財」の地図づくりに取り組んでいます。
 なんだ、めずらしくもない。とお思いでしょうか。でも、この仲間の仕事は、根底にあるこころが、とても尊いのです。
 彼らはそれを「まもりびと地図」と名付けました。
そこにいる人一人ひとり、誰もが何かの「まもりびと」である。というのがそのこころ。
 「人財」というと、何か際立った技や役割を持つ人という印象を持たれることがありますが、彼らの考える「まもりびと」とは、そうした、ある特別な人だけを指すのではありません。
毎日畑で野菜を作っているおばあさんは「家族の健康のまもりびと」であり、犬のポチの世話をしている少女は「ポチのまもりびと」なのです。
 この考えに、僕はまったく共感します。そうしてさらに、次のように考えたいと思います。
 すなわち、人だけではなく、そこに生えている一本の草、飛んでいる一羽の鳥、這っている一匹の虫、それぞれが、すべて何かの「まもりびと」だと。

僕たちの社会は、いつしかひどく「するする社会」になってしまった。これからは「いるいる社会」にしていこう――ある人と、ある晩語り合いました。
 お金儲けを「する」者にこそ価値があり、それのできない年寄りこどもは価値がない、と決め付けるのが「するする社会」。
 「いるいる社会」は、そうではなくて、人はただ、そこに「いる」こと、まずそのことが尊いのだという社会。
 「いるいる社会」の考え方は、わが「まもりびと」に通じます。
 何もできなくてもいい、何もしなくてもいい、人は…いいえ、浜辺の砂の一粒であっても、ただそこに「いる」こと、そこに「ある」ということそのことで、誰かを、何かをまもっています。
 例えばHさん。あなたはいま、突然落ちた病の淵で眠り続けているのだが、たとえそのような場所にあっても、あなたは僕らを、虚無からまもってくれている。一緒に地図をつくりはじめた仲間だからね。そうですね!


参考: 米原市「ルッチ大学」第4期生 事例研究
環境運動家辻信一氏との談話

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