金魚からもらった宿題
我が家では裏庭の片すみで金魚を飼っています。
餌は、ミジンコの干したのを毎朝ひとつまみ。そのひとつまみをやり忘れる日もあり、ともすれば、庭の片すみに彼が居ること自体を忘れているようなときもあるくらいで、飼っている、世話していると言うのもおこがましいのですが、そのようにして、この金魚とは、かれこれ六年ほどの付き合いです。
「住む」は「澄む」なり。
こんなことも、ある朝、この金魚から教えられたのです。
金魚は径尺五寸ばかりの火鉢に水をたっぷり張った、そのなかに放してあります。
この火鉢はもともと、近所のとある池が埋められる際、せめてもの記念にと譲り受けた、一株の睡蓮のためにしつらえたものでした。
睡蓮だけであった当初、火鉢の水は、暑さに向かうにつれて、緑色の藻アオミドロを孕んで濁り、ドロドロとしたものになっていきました。しばらく経つとその藻も死んで、沈んで汚泥と化しました。
そこへあるとき、たまたま金魚を飼うことになった。
すると、以後、鉢の水は濁りもせず、臭いを発することもなくなったのです。
金魚の「住(棲)む」は、水の「澄む」なり!
他愛ない語呂合わせではありますが、僕にとっては、大切な気づきとなりました。
生き物が、ある場所に生きていることにより、その場所が清々しいものになっていく。
ただし、そのためには、多様な生物が、ともにそこに居なければなりません。
ある一種の生物だけが、ある環境を独占すると、はじめはよいが、やがてその種は自らの生存基盤である環境を食いつぶし、自らの排泄物の中で死に絶える。
いっぽう、多様な生物でつくる世界では、それぞれの生物は他者に対して、わが種の命の延びしろや、場所の一部を譲らなくてはならないが、それによって、皆がともども生き延びる。
僕はある朝、尺五寸の宇宙を覗き、はからずも、生物界の実相を、目の当たりにしたのです。
「人ごみから / 人をとると / ごみが残る ※1」。
わがもの顔に、そんな生き方をしてしまっている僕らです。
僕らが地球に、僕が、このまち、せめて、この家に住むこと、それが、そのまま、その場所を澄ますことへとつながるように。
一匹の金魚から、僕がもらった、おおきな宿題です。
※1 引用 川崎洋著「へそ」『ほほえみにはほほえみ』童話屋 1998年所収
参考 栗原康著『有限の生態学』岩波書店 1994年