ソラミミ堂

邂逅するソラミミ堂14 無事というワザ

このエントリーをはてなブックマークに追加 2015年10月7日更新

作品 上田三佳

 学生が一人、ある土地の暮らしについて学ぶために、住民一人ひとりから話を聞いて歩いている。先日、「こんなことを教えてもらった」としらせてくれた。
 そのときは、暮らしを知るとはどういうことか、自分は本当に地域のことを分かっているか自問していた。そんな悩みを漏らしたところ、その人はこういう話をしたのだそうだ。
 曰く。例えば農作業について「種を蒔いて水をやる」という話になったとする。実体験の少ない若い人やなまじ知識を持った人のなかにはしばしば「種を蒔いて水をやる」という言葉でわかったつもりになる人がある。
 しかし、種を蒔いて水をやるという単純なことでも、まずどうやって種を蒔くのか。種は土をくぼませたところに入れるのか、種の向きは上か下か、水は回りからじわじわとかけていくのか…種ごとにやり方がある。
 「種を蒔いて水をやる」という言葉だけでわかったつもりになってそれ以上聞かなかったら、そのやり方はわからない。そこを平気で素通りしてしまえるような、物分かりのいい、いわゆる頭のいい人にはだから、教えても甲斐がないのだ。と。
 学生を諭し励ますつもりで若者やなまじ知識を持つ人を引き合いに出しておられるが、どんな人にも当てはまる。実体験の少ない若者だけでなく、おのれひとりの体験につい固執して勝手に合点する大人にも。
 さて、種を蒔き水をやる、よりもっと簡単なこと、日常毎朝毎晩のおこない・ふるまい。あいさつをする。飲む・食べる。立つ・歩く。言葉にすると一語であるいはひと言で片付いてしまうようなことでも実際は、数えきれない小さな所作が積み重なって成り立っている。それら小さな所作を僕らはいつどうやって習得したか。一つひとつを千年万年時間をかけて身につけてきた。
 なぜそのように僕らがやってのけられるのか覚えていない。振り返ってみもしないけれども、こともなくやる、できている。それは立派なワザである。
 日々の暮らしはそうして身につけ積み重ねてきたワザまたワザで成り立っている。暮らしをつくる「事も無い」こと。「無事」そのものがワザなのだ。    

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