襤褸(らんる)― ぼろの美

出雲一郎さん

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2014年8月29日更新

 それを何と呼ぶのか、ふさわしいと思える言葉が見つからない。しかし、古物の世界では、古布、とくに「ぼろ(襤褸)」と呼ばれているようだ。
 出雲さんが「ぼろ」に出会ったのは昭和63年ころ。古美術店の店頭にディスプレイされたボロボロの野良着を見て、頭を殴られたような衝撃を受けたという。思わず値段を聞いた出雲さんに、店主は「こんなもん欲しいんかい。面白半分に飾っただけなのに」とあきれるように言ったという。今でこそ「ぼろ」は現代アートとしての観点からも評価が高く、その価値も高い。海外にも「BORO」を求めるコレクターは多いと聞く。しかし、当時「ぼろ」をもてはやす人はほとんどいなかったそうだ。

 「ぼろ」。ふと周囲を見渡しても、ぞんざいにそう呼べるほどのものがどれだけあるだろう。「ぼろ」を用いるまでもない暮らしをしている。
 しかし、初めて出雲さんに出会ったとき、その手にしていたものは、まぎれもなく「ぼろ」だった。一枚の布とは言い難い。細かな布の集合体が一枚の布の態をなしている。原型などとうにわからない。敷いたり、包んだりすることに用いられただろうその布は、ぼろぼろに擦り切れ、繕われ継がれあてがわれ、それがまた擦り切れている。そうした箇所は一カ所だけでなく、また一時に施されたものでもない。布片は多くが藍染めで、その藍の濃淡と、布の破れや汚れ、縦横に走る縫い糸などが入り乱れ、そのはげしさに、まばゆいとさえ感じた。「ぼろぼろ」というだけでは言い尽くせない。「ぼろ」は、それを用いて野良で働く男と、それを繕う女との、気の遠くなるような営みが重ねでできている。目が離せなくなってしまった。

 出雲さんから一枚のFAXを受け取った。そのなかに、「なぜ、こんなボロが捨てられず残ったのか」という疑問について、こう綴られていた。「それはモノを大切にする倹約精神だけではない。これを箪笥に入れた妻は、きれいに洗濯し、キチンと畳んで残していたのだった。むしろ、ボロを夫婦の誇りとさえ感じていたのではないだろうか。夫婦にとって、ボロはけっして貧乏で恥ずかしいものではなかったのだ。『ボロは着てても、心は錦』―そんな時代の精神があったのかもしれない」。時を経て「夫婦の誇り」が忘れられたとき、「ぼろ」は、出雲さんの前に現れたのだろう。
 「ボロを纏うことには、宗教的にメモリアルな意味があるのではないかと思っている」そう言う出雲さんにとって、「ぼろ」は宗教性、精神性の世界にまで通じている。私にはまだ開かれていない扉だ。けれども、「何を着ていても、心に『ぼろ』を」とどめておきたいと思っている。

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