カロムロード再び

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2013年6月19日更新

写真1

 『カロムロード』(杉原正樹編著 サンライズ印刷出版部)が世に出てから17年、カロム伝来について不確かだったことがようやく整理できたのでここに記しておく。
 今年2月、彦根の花しょうぶ通りにある逓信舎で行った「CAROM petit Exhibition」や、6月6日放送のNHK「あさイチ」の番組内で話したことのレジュメのようなものである。
 日本に存在するカロムには、3種類の系統があることが判っている。ひとつは、日本の登山家が日本に持ち帰り遊んだチベットやネパールなどインド亜大陸のカロム(写真1)である。世界選手権大会の公式ボードは、これらインド亜大陸のカロムボードのデザインが基本になっている。世界選手権公認ボードは、約74センチ四方で四隅に直径約4.45センチの円形のポケットがある。

写真2: 大正6年のパンフレット

 次に盤面にチェック模様のあるカロムである。このカロムは商社が海外から輸入し、日本に紹介したものだ。「美津濃」(現 美津濃株式会社)発行の大正6年(1917)のパンフレット(写真2)に「ホッケット玉ハジキ」という名前で掲載されている。実は、日本全国に普及し遊ばれたカロムとは、このチェックの模様があるカロムなのだ。彦根にもこのカロム盤は存在している。このチェック模様のカロム盤は、何種類かのゲームを楽しむことができる複合ゲーム盤として普及し、現在でも同じようなボードゲームがアメリカ、日本で販売されている。昭和30年代には東京のデパートで購入することができ、かつて南極観測隊のレクレーションに採用されたのもこのカロム(写真3)である。第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長の西堀榮三郎氏は、「雪山讃歌」を作詞した人物であり、日本山岳協会会長も務めている。南極観測隊のレクレーションとして採用された経緯が見えてくるのではないだろうか。
 そして100年以上遊び継がれた彦根のカロム(写真4)である。

写真3

 インド亜大陸のカロムやチェック模様のあるカロムとはルールも盤の雰囲気も大きく異なっている。自家製の彦根のカロム盤には、裏面に所有者や制作年月日の墨書が残っているものがある。現在見つかっている最も古い墨書は「大正二年」。 
 日本では、ライフスタイルの変化と共に、一旦普及したカロムは徐々に姿を消していくが、彦根では正月や地蔵盆などには必ず登場し、ビー玉やメンコと同じように普段の暮らしの中で遊び継がれていった。そして、「かつて全国で遊ばれていたゲームならば、彦根のチャンピオンは日本のチャンピオンだ」と始まったのが、「第1回カロム日本選手権大会」(1988年8月28日・社団法人彦根青年会議所主催)である。今年も6月16日(日)に第26回大会が彦根市民体育センターで行われる。
 伝来については、ふたつの仮説があった。
 ひとつは、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家であり、メンソレータムを広く日本に普及させた実業家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏が、伝えたというものだ。
 もうひとつの仮説は、彦根からカナダに移民した人々が伝えたというものである。

写真4

 彦根のカナダ移民は明治18年(1885)に始まっている(『彦根市史』)。彦根の八坂を中心とする沿湖一帯は、かつてアメリカ村と称されるほど海外殊にアメリカおよびカナダに渡った人が多い。彦根でカロムの製造販売を始めた中野木工所の初代中野十太郎氏は八坂の出身である。そして実は、カナダのカロム盤は、ルールはインド亜大陸のカロムに似ているがボートはポケットが大きく彦根のものと似ているのである。しかも、ゲームに使用する自陣の玉は12個ずつ(インド亜大陸のカロムは大抵9個ずつ)。彦根のカロム伝来は、カナダへ出稼ぎにいった人々が持ち帰り、独自にルールを発展させた……。
 勿論、宣教師たちがレクレーションとして伝えた多くのゲームがあるのも事実だが、彦根のカロムに至ってはフランス系カナダ人が遊んでいたボードがルーツであると考えてほぼ間違いはない。今、直ぐにでもカナダに飛んでいき、再びカロムロードを歩き始めたいのだが。

小太郎

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