庭に箒もあてず、樹に木鋏を入れることもせず……

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2012年4月13日更新

五老井の句碑

 「五老井」は森川許六の号である。井戸の名前ではない。一般的に「許六」は「きょろく」というが、彦根では「きょりく」と発音するらしい……。
 許六は、明暦2年(1656)8月14日の生まれ。本名を森川百仲といい、禄高300石。通称を五助、五老井・菊阿佛・無々居士を号した彦根藩士である。代々、武術指南役を務める武術の達人だった。屋敷は、彦根のNTTの辺りにあった。現在、『森川許六屋敷跡』の石碑が建っている。
 2年ほど前から許六のファンである。「許六っていいなぁ」と憧れているだけなのだが……。
 「許六」の名は、彦根藩士としてではなく「蕉門十哲」の一人としてよく知られている。「蕉門十哲」とは、芭蕉の門人の代表的な十人のことをいう。
 「許六」の号は「六芸に秀でたる才人」と芭蕉がつけたといわれている。事実、井伊家菩提寺龍潭寺の襖絵(56面)は許六の作と伝わり、剣は正法念流、槍は宝蔵院流の奥義をきわめ、俳諧、書、画、篆刻、彫刻、能、茶にいたるまで多才であり、俳諧は芭蕉が師となり、絵は許六が師となったという逸話も残っている。
 許六の晩年は病床にあり、五老庵で、諷吟、編著に情熱をかたむけ、一日として筆を置くことはなかったという。正徳5年(1715)60歳で亡くなる。

 辞世のうたは
 下手ばかり死ぬる事ぞとおもひしに上手も死ねはくそ上手なり

 臨命終時の句は
 石佛鮨のおもしの始めかな

 許六の墓は、佐和町の長純寺墓地にあり、「五老井無無道無居士菊阿佛」そう彫ってあるらしい……。
 許六は、元禄4年(1691)、「五老庵」を結んだ。彦根市原町、原東山霊園の辺りだ。管理事務所に隣接した植栽のなかに、彦根藩士谷鉄臣の筆によるという句碑がある。

 水すしを 尋ねてみれハ
 柳か那

 許六が記した『五老井記』には、『霊泉があり、水がさらさらと流れているので五老井と名づけた。場所は鳥籠山に近く不知哉川が流れる原のあたり。一座に五人しか座れないほどの庵であるが、庭に箒もあてず、樹に木鋏を入れることもせず、草もあるがままにしている。「風雅のために文画をたのしむ」のこころざしに共感する者が、草庵に遊ぶのを待ち望んでいるが、鳥の鳴き声、蜂や蝶のたわむれだけで、これに応えてくれる者はいない。』(『孤高の才人 五老井許六』石川柊著)
 庭に箒もあてず、樹に木鋏を入れることもせず、草もあるがまま…。森川許六という人は、素晴らしく素敵な人だったのではないだろうか……。
 許六に憧れている。許六はものすごく独りである。春、霊泉があり、水がさらさらと流れる五老井の水すじをたずねてみたい。    

小太郎

スポンサーリンク
関連キーワード