平清盛、運河計画

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 西浅井町 2012年3月19日更新

 平安末期の久安6年(1150)頃、平清盛は、嫡男で越前国司であった長男重盛に命じ、敦賀と琵琶湖を結ぶ運河開削計画を実行したと伝わる。塩津海道(街道)深坂峠に運河を掘ることで、越前側の笙の川、近江側の塩津大川が結ばれ、敦賀港から塩津港まで約25㎞の水路が完成すれば、物資の運搬がスムーズになる。そんな計画だった。
 しかし、塩津側から始まった掘削工事は、深坂峠で頓挫する。こんな伝説が残されている。──工事は深坂峠のあたりで巨石が現れ前へ進めなくなってしまった。石工職人が金矢で打ち砕こうと穴を開けたところ、突然腹痛にかかってしまう。不思議に思った役人が石を掘り起こすと、それはお地蔵さまであった。さらに怪我人や病人が続出したこともあって、重盛は工事を中止し、この石を安置。以来深坂地蔵、掘止め地蔵と呼ばれるようになった──
 のちにこの地蔵は、古道を往来する商人たちが、当時は貴重だった塩をこの石に塗り、旅の安全を祈願したことから「塩かけ地蔵」とも呼ばれるようになった。

 重盛は、清盛の長男として後継を期待されていたが、父より先に病死する。清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した「治承三年の政変」の年であった。激情型の清盛とは違い、温厚な人柄だったという。運河工事も強攻しようとはせず、石を祀ることにしたのだろう……。
 ところで、その後大正末期まで同様の運河計画は15回もあった。戦国時代は、敦賀藩主・大谷吉継も試みたというが、ただ、一度も運河は完成することはなかった。そして、あまり知られていないが、昭和の時代にも敦賀と琵琶湖を結ぶ計画はあった。
 昭和8年、琵琶湖疎水を計画し完成させた田辺朔郎博士の『大琵琶湖運河計画』。昭和10年、田辺博士の計画を受けて「艀(はしけ)鉄道計画」。運河ではなく、鉄道用トンネルを掘削し、艀ごと運んでしまおうというわけだ。そして昭和36年『日本横断運河構想』と続く。

『源氏物語』の作者紫式部が、父藤原為時と越前へ下ったのが長徳2年(996)。紫式部は、大津から琵琶湖を船で塩津へ渡ったのち、塩津山を越え敦賀へと旅をする。
 「知りぬらむ 往来にならす塩津山 世に経る道はからきものぞと」
 紫式部が塩津山を越える際、輿を担ぐ男たちの「やはりこの道はいつ通っても難儀だな」との一言を聞いて詠んだものだ。「お前たちこれで分かったでしょう。通いなれたこの道もつらいけど、世の中の道はもっと厳しいものですよ」と思いを込めたのだろう。今も深坂地蔵に参る人は絶えない。古道は木々に囲まれうっそうとしているが、勾配もなく険しくはない。徒歩15分ほどで、祠に着く。福井側へはここから40分ほど歩けばJR新疋田駅近くへと出る。物資輸送、観光事業など経済とは縁のない長閑な古道である。
 春、雪解けと共に、清盛に始まった運河計画の道を辿ってみてはどうだろう。その、荒唐無稽、奇想天外、壮大さに、元気が出てくるに違いない。

*深坂地蔵のお堂は、常時開帳している。3月3日現在、古道には雪が残り、長靴が必要(掲載の写真は昨年12月撮影のもの)。

いと

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