井伊直孝公の歯骨を祀る御廟

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2011年11月3日更新

大信寺 直孝公の歯骨を祀る御廟

 映画「一命」は彦根藩第2代井伊直孝公の時代の話である。徳川幕府からの信頼も篤く、15万石からスタートした彦根井伊氏は直孝公の代で30万石(城付米五万石)の譜代大名でも有数の大大名となった。映画「一命」の劇中に、鬼の角のような天衝をあしらった兜、甲冑具足まで赤一色に染め上げられた赤備えの鎧甲が映っている。「夜叉掃部(やしゃかもん)」と呼ばれた直孝公をイメージしたのだろう……。
 彦根城の築城は、直孝公の時代に始まる。慶長9年(1604)から開始され、慶長12年(1607)頃には天守が完成。 その後、一旦中断していた工事は、元和元年(1615)大坂夏の陣の後、再開され、表御殿の造営、三重の濠と櫓、町割の整備、街道の整備が進み、城下町を含む彦根城の基本的な形は元和8年(1622)までには、ほぼ完成したとされている。
 あまり知られていないが彦根市本町1丁目にある大信寺には直孝公の歯骨を祀る御廟がある。この辺りはかつて寺町といい、大信寺、来迎寺、願通寺の石垣が続いている。なかでも大信寺の石垣は、牛蒡積みで築城時のものだという。
 大信寺は、慶長5年(1600)、井伊直政公が関ヶ原戦功により近江(滋賀県)佐和山城主となり、翌、慶長8年(1603)、現在地を寺領として大信寺を建立した。その後、元禄6年(1693)及び元禄14年(1701)と相次ぐ大火により堂宇は全焼したが、幸い仏像・位牌・諸帳簿・掛図等は難を免れ、宝永6年(1709)江戸時代中期、大信寺第6世空譽上人の時に井伊家より特別の御加護のもとに再建し、今日に至る。石垣は400年、建物は300年の歴史を刻む井伊家縁の寺である。
 彦根藩第2代藩主直孝公は、信心深く、直政公の法事のたび毎に大信寺に参詣され、第3代藩主直澄公も直孝公の法事には欠かすことなく参詣されたという。
 何故、直孝公の歯骨を祀る御廟があるのかは記録が無い。何故、直政公の歯骨ではなく、直孝公なのかも不思議である。
 直孝公は、万治2年(1659)享年69歳で亡くなり、遺骨は縁の深い世田谷の豪徳寺に葬られた。大信寺は、井伊家の菩提寺ではなく帰依寺である。直孝公は直政公の意志を受け継ぎ、藩主として民の安寧を願い彦根の城下を築いた藩主である。大信寺第18世吉澄哲恵住職は、「直孝公が亡くなられた時、その魂を鎮め、歯をお祀りし城下町を治める精神的拠り所にしたのでしょう。歯骨というのは大切な、また崇高な祀り方のひとつではないでしょうか……」と言われる。墓石の裏側には『直孝鎮魂』とはっきりと刻まれているという。
 直政公、直弼公ばかりが注目されがちだが、映画「一命」を観る機会に、招き猫の発祥にも関わる直孝公に注目だなと思っている。

小太郎

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