源義経と舎那院

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2011年10月31日更新

 ——昔々。京の都では、怪僧弁慶が、夜な夜な通行人の刀を奪いこれを千本集めているという噂で、おそれられていた。千本目となるある夜のこと、牛若丸という少年が弁慶の前に現れた。弁慶は牛若丸の立派な太刀を奪おうと長刀を振り回すものの牛若丸は華麗にかわし、手に持った扇を投げ弁慶の額に命中させた。降参した弁慶は、牛若丸の家来となって仕えたという  
 昔話でおなじみの牛若丸と弁慶の出会いのエピソードである。この牛若丸は修行中の鞍馬寺を出奔し、源九郎義経の名で元服した。竜王の鏡神社は義経の元服地として知られる。
 源九郎義経(源義経)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟にあたる。頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった人である。しかし平氏の一族の娘を妻にしたことなどから頼朝と対立、追われる身となる。その逃避行の際に助けを求めたのが、長浜にある真言宗豊山派の古刹・勝軍山新放生寺舎那院である。
 「当時の舎那院の執事・長善は、長浜はすでに危険だから木之本の浄信寺へ向かうように進言しました。寺同士、宗派は違うものの古くから交流があったのです」とご住職の吉田龍恵さん(81)が教えてくださった。
 義経は浄信寺で一泊したという。その後、義経は奥州藤原氏の3代当主・藤原秀衡(ひでひら)を頼って平泉へ逃れる。しかし秀衡の子・泰衡(やすひら)の裏切りにより自害という運命をたどる。
 義経の先祖にあたる源義家も、舎那院で戦勝祈願している。陸奥の豪族の阿部氏が朝廷に対して起こした反乱の征討に先駆けてのことで、義家は父・源頼義らと共に阿部氏を倒した。前九年の役と呼ばれる戦いである。
 この勝利にちなみ後三条天皇から「勝軍山」の山号を授かると共に、勅願の神宮寺として長濱八幡宮が建立された。
 「新放生寺という名は、八幡宮の境内にある放生池の周りにあったことに由来しています。延べ数300寺坊の存在が記録されており、それらの総称として新放生寺と呼ばれていたのです。しかし明治の廃仏毀釈で寺は次々廃され、舎那院のみが残りました」
 舎那院の名は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)に由来している。真言宗の根本仏・大日如来のことで、奈良の大仏さまも毘盧遮那仏である。そして牛若丸が鞍馬寺に預けられたときに名乗った稚児名は、遮那王……。不思議な符号に思いは巡るのである。

勝軍山新放生寺 舎那院

滋賀県長浜市宮前町13-45
TEL: 0749-62-3298

本殿は8:00頃〜17:00頃、自由に拝観できる。

店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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