江遠望 2011
彦根城天守・西の丸三重櫓

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2011年5月16日更新

彦根城天守

 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦後、井伊直政は徳川家康より、石田三成の佐和山城と18万石を与えられたが、慶長7年(1602)関ヶ原での戦傷がもとで亡くなった。彦根城と城下町の建設は、彦根藩主第2代直孝の時代で、家康の命により天下普請で行われ、慶長9年(1604)に始まり、20年近い歳月を経て完成したと伝わっている。
 国宝の『彦根城天守』は3階建て3重の屋根で構成され、「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配し、「花頭窓」、3階には高欄付きの「廻縁」を巡らせた瀟洒な姿である。解体修理では、墨書のある部材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607)頃であること、もともと5階4重の天守を移築したものであることが判明している。『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、彦根城の天守が大津城(大津市)の天守を移築したものと考えられている。関ヶ原合戦時の大津城主は、「江」の姉「初」の夫、京極高次である。

西の丸三重櫓

 京極氏は近江源氏として知られる名門佐々木氏の一族で、佐々木六角氏と並んで近江を二分する勢力があった。伊吹山麓に上平寺城を築くなど繁栄したが、浅井氏の台頭で衰退していた。その名を再び盛り返したのは京極高次だった。
 高次は、浅井長政の姉・京極マリアの息子で、浅井三姉妹とは従兄妹の関係になる。小谷城には「京極丸」という曲輪があり、高次はここで出生したといわれている。高次は、浅井氏滅亡後、5千石で織田信長に仕え、本能寺の変では明智光秀に味方したため豊臣秀吉に追われ、越前北の庄城の柴田勝家を頼った。しかし、その勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に滅ぼされ、次に頼ったのが高次の姉・龍子(妹との説もある)の嫁ぎ先だった。
 その後、龍子が秀吉の側室となり、高次は秀吉から罪を許され、秀吉の家臣となった。高次は、小田原攻めの戦功で近江八幡2万8千石、後に大津城主六万石(文禄4年・1595)と出世を遂げることになる。
 関ヶ原合戦では、西軍からも東軍からも味方になるように勧誘があった高次は、当初、西軍として北国へ出陣、一転し大津城で籠城戦を企てたのである。毛利元康、立花宗茂ら石田方1万5千に城兵3千で猛攻を繰り返し、「初」もまた城内の女たちを必死で指揮し、奮闘したという。
 高次が籠城しなければ、毛利、立花の一万五千の兵は関ヶ原を戦ったことだろう……。彦根城天守を仰ぎ見る時、石田三成の胸中、「淀殿」の驚き、「初」や「江」の苦悩まで遠望できるのではないだろうか。
 ちなみに、昭和30年代に行われた解体修理では、証拠となる痕跡は確認されてはいないが、『西の丸三重櫓』は、浅井長政居城小谷城の天守を移築したと伝えられている。

 

小太郎

DADA Journal 内の関連記事
スポンサーリンク
関連キーワード