真田幸村の娘の墓

少林禅寺

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2010年7月27日更新

少林禅寺の裏山にある墓地。歴代住職の墓が並ぶ場所に、真田幸村の娘「九品院殿智海妙恵大姉」の墓がある。歴代住職の墓は、山を背景に谷を見下ろすようにあるのだが、真田幸村の娘の墓は、住職の墓と向き合って置かれている。一等の地にあるのだが、山に向かうのは何か理由があるのだろうか……。

 真田信繁という戦国武将がいる。大坂の陣で宿敵徳川と戦い討死した彼の武勇は、後世に語り継がれることになった。この時信繁49歳。家康を追い詰めた真田信繁の名は江戸時代、禁句とされ、幕府を憚った講釈師によって「幸村」と語られるようになったという。幸村としてその名は、真田十勇士と共に小説やゲームなどで広く知られるところである。
 昨年11月、『真田幸村の娘と彦根』として『幸村の娘の墓が彦根にあるらしい』という記事を書いた。少林禅寺という寺にあり、半年が過ぎた梅雨の最中、ようやくその墓まで辿り着いた。それにしても、何故、真田幸村の娘の墓が、彦根にあるのだろう。

 幸村は、真田昌幸の次男として生まれた。昌幸は、少年の頃から武田信玄に仕え、徳川の大軍と二度戦い、二度とも破った類のない戦歴をもつ。
 『彦根史話』(宮田常蔵著・昭和39年初版)に『大坂方の名将真田左衛門佐幸村には一子大助の外に一女があった。彦根藩士青木五郎兵衛の妻となって、大坂両陣の頃には彦根に在住していたが、父は大坂方の将として弟大助と共に大坂城に入り、夫は井伊家の家臣として、直孝に従って東軍の陣中にあった』とし、更に、青木氏はもと信州上田城主真田昌幸の家臣であったが、武田氏滅亡後、直政の新軍団に配属される。青木氏の菩提寺は彦根本町江国寺である。過去帳には四代目、青木五郎兵衛が彦根元祖と記録され「徳挙院殿正因寿心大居士」。妻であった幸村の娘は「九品院殿智海妙恵大姉」、元和6年(1620)4月18日、彦根で亡くなっていると記されている。
 ここに出てくる「直政の新軍団」というのは、天正10年、家康は直政に、家康の家臣木俣守勝、西郷正員、椋原正直をつけ、更に、長篠の戦(天正3年)で破れた滅亡後の武田の遺臣を井伊隊に付属させた。この中には赤備えで知られた飯富虎昌や小幡一党がおり、家康は武田家中の赤備え部隊の精強にあやかり、直政の新軍団を「赤備え」とするよう命じたという。直政は、武田軍団の象徴を名実共に引き継いだのである。
 笹尾町にある少林禅寺は江国寺末寺だ。
「九品院殿智海妙恵大姉」。大坂冬の陣の前に彦根に嫁ぎ、大坂城落城の6年後に亡くなった女性の墓である。名将真田幸村の血脈の一筋がここに眠っている。どんな女性であったのか、何を思い彦根の空を見上げていたのか……。笹尾の山が故郷の山なみを思い出せるほどに似ていることを願うばかりである。

参考資料

  • 『彦根史話・上』宮田常蔵著・発行所 彦根史話刊行会
  • 『井伊の赤備え —彦根藩の甲冑—』彦根城博物館
  • 『歴史読本 戦国武将の美学』新人物往来社

小太郎

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