長刀山から知るまつりのルーツ
神輿+太刀渡り+曳山+子ども歌舞伎=長浜曳山まつり?
今年の長浜曳山まつりは長浜市の合併を記念し、全山が長浜御旅所に揃う〈月宮殿(田町組)は修理中のため曳山博物館にて展示〉。そのひとつ長刀山(なぎなたやま)は「太刀渡り」を行い、そこで用いる太刀やのぼりが飾られている。唯一子ども歌舞伎を上演する舞台をもたない山である。長刀山のみが舞台をもたない理由を、長く知らずにいた。
実は今の曳山まつりは、長濱八幡宮の神事と複数の行事が組み合わさって成立している。
豊臣秀吉は長浜城を築き城下町を造成していくなかで、荒廃していた八幡宮を復興した。その時、八幡宮創建に関わった源義家の凱旋の様子を現した太刀渡りを町衆に行わせた。その後秀吉の男子誕生の祝いとして贈られた砂金を元手に、町人が曳山を造営したとされている。
まつり本日の朝、八幡宮では長刀組の太刀渡りの行列に続き「翁招き」という儀式がある。長刀組の一人が「最初 長刀組」と記された札をはさんだ竹竿を、神前に向かって振り、曳山の方へ向ける。ちょっと風変わりで一見、何を意味するかわからない。これは長刀組の退出と同時に子ども歌舞伎のスタートの合図で、翁は神様の移し身なのだという。
「八幡宮の祭礼は太刀渡りから始まったという長刀組の格式をよく顕した儀式でしょう」とまつりに詳しい西川丈雄さんに教えていただいた。
もうひとつ、まつりでは八幡宮から御旅所への神輿の往復がある。これは秀吉が八幡宮を復興する以前からあった、春と秋の神事で、現在では春の方が曳山まつりと同時に行われている。
行きは曳山の山組地域の人々が、還りは「七郷」と呼ばれる山組の周辺地域の人々がかつぐ。七郷は城下町が栄える以前からあった村々である。
神輿が御旅所から八幡宮に還る時、まつりはクライマックスを迎える。ところが神輿は真っ直ぐ八幡宮に向かわず、御旅所に戻ってくる。「神様がまつりを名残おしんでいる」という理由だそうだ。御旅所にいる曳山は、神輿が御旅所近くの「札の辻」を越えないことには退出することができず、七郷のかつぎ手が辻を越えるのを待つしかないのである。
ごくシンプルにいえば、もともと八幡宮の神様をのせた神輿のお渡りがあり、その渡りに連なる祭礼として太刀渡りが生まれ、曳山が造られた。曳山には舞台ができ、子ども歌舞伎が演じられるようになっていった……。町衆で担っていた太刀渡りはいつしか一部の地区に引き継がれ、今の長刀組を形成している。長刀山は他の曳山とは別の過程で成立しているため、舞台をもたない山なのだ。
神様の渡りを賑やかにするための祭礼は、観客を魅了するものとしても発展し、今の曳山まつりがある。行事のそれぞれに長浜がたどってきた歴史が垣間見られる。愛らしい子ども役者の舞台とはまた違ったまつりの見どころである。
長浜曳山まつり
2010年4月13日(火)
朝 八幡宮から御旅所へ神輿渡御
2010年4月15日(木)
朝 太刀渡り・翁招き / 夜 神輿還御
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