湖東・湖北 ふることふみ 49
禁門の変

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年10月8日更新

井伊直憲が護衛した朔平門

 幕末から明治維新の政治舞台は京都であるとのイメージがある。しかし京都が政治の中心になるのは禁門の変以降であることはあまり重視されない。大河ドラマ『西郷どん』を観ていると、島津久光に冷遇され遠島になっていた西郷吉之助がいきなり薩摩藩の主要人物になっているように感じるが、実はここには大きな事件による飛躍があった。それが禁門の変である。
 8月18日の政変で一橋慶喜や会津藩が朝廷を差配するようになり、失脚した長州藩士たちは京都に火を放って天皇を奪う計画を立て、新選組によって阻止された。これを池田屋事件と呼ぶ。京都の不穏な空気から朝廷は井伊直憲らに勅を出して京都警護を命じ直憲はこれに応じて自ら彦根藩兵を率いて京都に入った。藩兵は伏見や坂本にも兵を派遣しながら直憲自身は洛中に入り孝明天皇に拝謁、彦根藩は御所の北面朔平門外の警備を命じられる。8月18日の政変から11か月が過ぎた時だった。
 彦根藩は中立売御門と蛤御門に木俣土佐隊、堺町御門に宇津木兵庫・貫名筑後・新野左馬助隊などが警備にあたったが、この警備が完了した二日後に長州藩が洛中に攻め入る。長州藩は大軍を伏見から進め幕府軍の主力を洛中から引き離した上で天龍寺方面から来島又兵衛や久坂玄瑞が率いる精鋭部隊が御所近くまで簡単に入り込み、蛤御門を中心とした各門で戦いが起こったのだった。この戦いの全てを「禁門の変」、とくに激戦区であった場所を指して「蛤御門の変」と呼ぶ。木俣隊から離れ会津藩が警護の中心となっていた蛤御門が固く守られているなか中立売門と下立売門が長州藩に突破される。その中でも会津藩は蛤御門をよく守り、そして西郷吉之助率いる薩摩藩が援軍に駆け付けたことで形成が逆転し長州軍は敗走し久坂玄瑞らは自害した。先述の通り中立売門警護には木俣土佐隊も加わっており禁門の変で六名の戦死者を出している。新選組永倉新八の回顧録では伏見で戦った彦根藩士たちも少数であったため長州軍の攻撃に驚いて桃山に退いたと記録されており、彦根藩の悪い部分がよく指摘されている。しかしこの時期の京都は政治の中心ではなく京都守護を命じられていた会津藩や桑名藩以外は要人も藩兵も京都に置いていなかった。だからこそ浪人の集まりである新選組が池田屋事件を起こせた。幕府の要人が居るならば新選組の出番はないからである。彦根藩も上洛してひと月もしない間に戦うことになり本来の力は出せなかったであろう。しかし戦の八日前に佐久間象山が暗殺されるまで彦根遷座の話もあったことから彦根藩に対する朝廷の期待は高かったと思われる。
 冒頭の話に戻るが、西郷吉之助は閑職であった京都藩邸待機であったが、そのために要人が出払っていた薩摩藩の大将になり勝戦を指揮した実戦経験者となる。その後の政治工作においても第一級の要人として扱われる存在となったのは禁門の変が起こったからであった。

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