湖東・湖北ふることふみ 47
堺南台場

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年8月15日更新

彦根藩が築いた幕末最大規模の「堺南台場」

 桜田門外の変から明治維新まで7年の期間がある。私たちは彦根藩が井伊直弼暗殺後に何の動きもないまま明治維新を迎えた様に感じている。しかし、この間にも彦根藩はたくさんの苦悩があり歴史の舞台のちょっと脇を歩んでいた。今回からそんな幕末維新の彦根藩の姿を現場ごとに追ってみたいと思う。
 彦根藩主が直弼の兄直亮だった時代、直弼が憤慨する役割が彦根藩に命じられた。江戸湾近郊で異国船が多く出現するようになり、三浦半島の警護を命ぜられたのである。彦根は京都警備の任があり、問題が起こった時には天皇を彦根城に匿うという密命も帯びていたと言われていた。そんな大切な仕事を差し置いて江戸湾の警備に兵を割く、ましてや井伊家の家格から考えるとあまりにも低い仕事だと思われていた。実際に同じ仕事を任ぜられた藩を見ると親藩の忍藩や外様の長州藩など、当時の幕府運営から考えると譜代大名筆頭の家が受ける仕事ではなかったのかもしれない。その背景には井伊直亮は大老に就任した実績を持ちながらも水野忠邦らの台頭で失脚し、次代の阿部正弘とも距離を置いていたためだとも考えられる。そして彦根藩士はこの相州警護と言われる任においてあまりにも不甲斐ないと他藩から笑われる結果にもなっていた。
 直弼が藩主になると京都警護を理由に相州警護から外れるが、彦根藩にとって湾岸警備が不名誉であることが公になったのだった。
 幕府は直弼没から3年後に彦根藩に対して大坂湾に造られていた簡易的な台場の改築と警備を命じた。台場は現在でも「お台場」の地名が残る施設で海に埋立地を作って砲台とする要塞である。黒船来航時に翌年の再来航に備えて幕府が建造させ、全国の海を有する藩に台場建造を命じた。しかし5年もしないうちに村田蔵六(大村益次郎)などは無用の長物であると指摘していた物でもあった。貿易の拠点である大坂湾の警備だけならば家格の低下を認識しながら受けざるを得ない命令であっただろうが、ここに役にも立たない台場建造が加わったことは悔しい思いであっただろう。他藩ならば台場建造すら最新鋭の技術だったかもしれないが、彦根藩はオランダから幕府に提出されていた世界の動きを記した『阿蘭陀風説書』を読める(むしろ読まなければならない)立場にあり表面上は赤備えの軍勢を重視しながらも既に藩兵の洋式武装も進んでいたと考えられる時期であるだけに大金を投じて無駄な物を造ったことになる。しかし彦根藩はここに稜堡式築城法を用いた幕末最大規模の台場建築を完成させ面目を保ったのだ。
 歴史的には幸福なことだが、この時建造された堺南台場は戦いで使われることは無かった。現在ではスポーツもできる大浜公園として使用されていて、石垣などの遺構も綺麗に残り当時を忍ぶことができる。平和な活用をされていて、当時の台場を知る資料になっていることだけが堺南台場を建造した彦根藩に対する救いかもしれない。

 

古楽

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