湖東・湖北 ふることふみ 45
桜田門外の変(後編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年6月15日更新

桜田門外の変を描いた絵葉書 / 個人蔵

 当事者たちにとっては長い時間だったであろう桜田門外の変も時間にすれば十分にも満たなかったとされている。
 前稿で行列の日雇い仲間が一番に逃げたという説があることを書いたが、私は何年か前に『柘榴坂の仇討』という映画の中で桜田門に向かう彦根藩の行列にいた仲間役をいただいたことがある。エキストラではあったが井伊様の駕籠に連なっている自分が少し誇り高かった。映画のエキストラでもそう感じるのだから封建制度が強かった時代にはもっと誇りを持っていただろう、だがその誇りに命を賭けることはない。行列から逃げた者の姿を見た藩士の中にも動揺が走り、同じように去った者が居てもそれは責められるものではないかもしれない。まずは行列の先頭で騒ぎが起きて多くの者が前方に移動し、襲撃があったことで人が逃げて行くと駕籠の周りは手薄になり、ここに向けてピストルが放たれ銃弾で下半身不随になる重賞を負った直弼は駕籠から出ることもままならず、やがて乱暴に扉を開けた薩摩藩士有村次左衛門が直弼の体を強引に引きずり出して首を刎ねる、そこには高官に対する敬意は無かった。主君の首が取られるまでの大事件から逃げた藩士は文久二年に起こった彦根藩の政変で自害に追い込まれることになる。その反面、武士らしく戦った河西忠左衛門や永田太郎兵衛、主の首を持って行かれないように有村に斬りかかった小河原秀乃丞らが居たことは、江戸時代が二百年続いた平和な時代であっても彦根藩士は武士としての鍛錬も行っていた証でもあった。そんな全員とは言えないまでも勇敢に戦った藩士が存在しながらも、譜代大名筆頭で最高権力者である彦根藩ですら公然として暗殺される時代になったことに対する世間の衝撃は大きかった。こうして歴史は大きな転換期を迎えることになる。
 幕府も井伊政権に近い政策を踏襲しながら、元来が穏健派である安藤信正が舵取りを行ったため直弼ほど強硬手段を用いず、安政の大獄すら恩赦されたために暗殺によって政治が変えることができる時代の到来を公言する結果となる。人を殺すだけで時代が変えられるならば、多くの人間を殺した者が尊敬されるし、
一人で誰かを殺せないならば集団となって挙兵すれば良い時代となった。幕末維新の勝者と認識される薩長土は言い換えれば暗殺者の利用が上手だった藩でもある。この単純でも錯誤的な時代認識の上に暗殺と戦争で政権を奪った新政府は、今度は自分たちも暗殺と戦争の暴力というしっぺ返しを受け、横井小楠・大村益次郎・大久保利通らの政治家を政策未完成のまま失い、佐賀の乱や西南戦争をも引き起こした。その暴力は明治時代が何十年過ぎても沈静化されず、板垣退助や大隈重信が襲われ原敬暗殺などにも響くのだった。
 結果的に桜田門外の変から始まる暴力の日本史は日本人を世界大戦に巻き込み国土は焦土と化し多くの国民を失って正常化されたのだった。

古楽

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