湖東・湖北 ふることふみ 43
桜田門外の変(前編)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2018年4月10日更新

 今年は明治維新150年ということで、幕末が再び脚光を浴びている。幕末の明確な始まりは外圧である黒船来航からと考えることができるが、幕末史の裏の局面である血生臭い「天誅」と称する殺人事件の数々は桜田門外の変から始まる。逆説的に言えば桜田門外の変が無ければ気に入らない人物を殺してでも世の中を変えようとする急激な改革は行われず、もっとゆっくりとした変化だったかもしれないのである。そんな日本史の変換点となった大事件を再び見直してみたいと思う。
 萬延元年(安政7年・1860)3月3日は太陽暦に直せば3月24日となる。この時代は今よりも寒かったとされているがそれでも桃の季節に江戸で積もるほどの雪が降るのは珍しかった。3月3日は上巳の節句であり大老である井伊直弼は江戸城への登城が義務付けられる日であった。大名の登城には明確な決まりがあり、時間や入る門、行列の人数も決められている。この規定に従って直弼も出立の準備を行っていた。一説では早朝に襲撃を告げる手紙が彦根藩上屋敷に投げ込まれていたが、直弼はこのことを誰にも報せず、出立後に直弼の部屋の机の上に手紙が置かれていたのが発見されたという物語になりそうな場面が描かれることが多く、直弼が覚悟のうえで駕籠に乗ったとの解釈がされている。
 しかし、直弼はこの時点で目的の途中でありまだ死ぬことはできなかった。しかも後継ぎが決まっていなければ藩が断絶になることも知っていて、執拗なまでに幕府の法令を遵守することを周囲にも強いた人物である。そんな直弼が後継ぎを幕府に届け出ないまま死の回避を行わない筈がない。つまり直弼はこの時点で自らが死ぬどころか襲撃されることすら考えていなかったのだ。では彦根藩士たちはどうだったのか?
 漫画家みなもと太郎さんは『風雲児たち幕末編』で一つの説を述べている。これによると彦根藩上屋敷の門辺りは少し高台になっていてここから桜田門まで見渡すことができると指摘されていた。もし井伊直弼が幕府の法令に従って行列の人数を増やさなかったとしても藩士の数名が行列出発後に桜田門まで入るまで見送っていればいいのである。そうすればたとえ行列が襲撃されたとしてもすぐに救出に行けたのだ。しかし現実的には行列が襲撃されてから藩士が救援を求めて門を叩くまで藩邸では主君の遭難を知らなかった。これは彦根藩では誰も直弼が襲撃されるとは思っていなかったことを表していることになる。この日の雪の為彦根藩士は刀を安価な物に替えたり柄袋を被せていたりしたことを不覚と伝えられえてきたが、江戸時代の武士は武器の使用ができなかったと大石学先生が指摘している。危険を感じず使えない武器を携帯するだけなら彦根藩士の備えは当然のことであったのだ。そして江戸城より登城を促す太鼓が響き、定刻に彦根藩邸の門が開いたのだった。

古楽

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