湖東・湖北 ふることふみ 37
井伊家千年の歴史(20)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年10月3日更新

昨年発見された南渓和尚の位牌

 井伊家の話、再開。
 直虎を始めとする井伊家の人々に常に寄り添って助言する人物が龍潭寺の二世住職南渓瑞聞である。
 南渓和尚は直虎の大叔父(祖父の弟)で、以前は井伊直平実子の次男(もしくは三男)と言われていたが、過去帳を見ると両親の戒名が直平以外の人物が記されていた。現在では井伊家に養子として迎えられたのではないかと考えられている。別説は混乱期の井伊家を支え続けた人物だったために『井伊家傳記』作成時に祖山和尚が井伊家一門に入れたのではないかともされている。南渓和尚の両親と直平がどのような関係にあったのか資料はないが、もしかしたら僧籍に入れるために井伊家の養子に入った可能性も否めない。俗名や幼名も伝わっていないが出家したあとは、直平が井伊谷に招いた黙宗瑞淵(龍潭寺一世)に学び、龍潭寺二世となる。また桶狭間の戦いのあとには今川義元の葬儀総括(安骨大導師)を任されるほどの名僧になっているのだ。
 その言は井伊家のなかでも重要視されていたようで、亀之丞逃亡後に出家した直虎に女性でありながら「次郎法師」という男性のような名で納得させるという離れ業を実現させることになる。この後の受難の時期を経て井伊家には幼い虎松以外の男子が居なくなり、龍潭寺で出家していた直盛の娘次郎法師を直虎と名乗らせ女地頭として井伊家当主とし自らが後見となる道を南渓は選んだのだった。
 今川氏真の介入を直虎が支えきれず、井伊家はいったん地頭としての地位を失い直虎も龍潭寺門前松岳院の尼に戻る。そして武田信玄の侵攻によって井伊谷や龍潭寺は火の海となったのだが、そんな苦労を乗り終えて虎松が十五歳のとき、南渓は直虎や虎松の母と計って虎松と徳川家康の面会を浜松城下で演出し井伊家の発展の基礎を虎松(家康に仕えて万千代と改名)に託す。
 徳川家への仕官という大仕事を成功させた南渓と直虎は万千代の活躍に一喜一憂していたと想像するが、年が若い直虎を先に送ることになった。
 そののち、万千代は元服し直政と名乗り、赤備えを託されると南渓は井伊谷の井伊家旧臣との仲介役を務め、自らの弟子で武芸に秀でた傑山と昊天を補佐として与える。直政は小牧長久手の戦いなどで活躍、豊臣秀吉にも愛されて昔の井伊家を取り戻すような活躍を見せ南渓はそのすべての報せを聞く立場にあった。そして直虎が亡くなった七年後の天正17年(1589)9月28日にその生涯を閉じた。その意志は昊天によって彦根も引き継がれる。
 江戸期を通じて彦根藩では井伊谷における井伊家の実績を調査させていた。井伊直弼の兄直亮は天保13年(1842)の井伊共保750回遠忌で南渓和尚の功績を称える和歌を作っている。

古楽

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