柏原宿 金太郎の謎!?

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 米原市 2017年7月6日更新

 中山道醒ヶ井宿の地蔵川沿いにある日本料理 「本陣樋口山」は、年に幾度か思いだし、実際には一度か二度、理由をつけて食べに行く、僕にとっては特別な場所である。本陣と冠が付いているだけあって歴史も古い……と、本来ならば「本陣樋口山」の記事になるはずだったが、今回は樋口山の玄関に飾られた一枚の浮世絵の話である。写真がそれ。カメラを構える自分の姿が映り込んでいるのが難であり、ちょっと悲しい。
 あまりにも有名な安藤広重の「木曽海道六拾九次之内 柏原」である。当時、江戸でも知られた伊吹のもぐさ屋亀屋左京の屋敷が描かれている。広重は店舗の右端に福助人形を左に金太郎人形を描き込んでいる。そして亀屋左京には大きな福助人形が今も現存している。
 「福助人形」は江戸中期頃より人気を博した縁起物で、商売繁盛、家運隆盛の置物として愛されてきた。福助人形の発祥説は江戸発祥説、京都発祥説など様々で、一説に「もぐさ屋亀屋説 」がある。柏原のもぐさ屋亀屋に番頭の福助が実在したというものだ。福助は正直者で、商売ではお客様に真心で応え、亀屋は大いに繁盛したという。
 多分、広重は亀屋の番頭福助の伝承を知り、江戸でも人気の福助人形を画中に配したのだろうか……。
 では、「金太郎人形」はどうだろう。何故、広重は金太郎を描いたのだろう。当時、絵を見た人が、或いは、絵を見て旅に誘われた人が柏原宿を訪れ、「ああ、なるほど、そういうことだったのか」と納得できる理由があったはずなのである。
 金太郎は、昔話に登場するヒーローである。足柄山で鉞(まさかり)担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な男の子のイメージで、五月人形のモデルになっている。菱形の腹掛は「金太郎」と呼ばれている。現代ではauのCMにも登場し、今も昔もその知名度は絶大である。
 しかし、金太郎の物語の記憶は曖昧で、鉞を担いで動物たちと相撲をとっていたことくらいしか思い出せない人も多いのではないだろうか。
 いくつもの伝説伝承が語り継がれているが、物語の基本的な構成はどれもよく似ている。時代は平安時代。金太郎は足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、力量を認められて家来となる。京に上り名を坂田金時(きんとき)と改名。数々の手柄をたてて渡辺綱(わたなべつな)、卜部季武(うらべすえたけ)、碓井貞光(うすいさだみつ)らと共に頼光四天王の一人となる。当時、丹波の国の大江山の酒呑童子が都を訪れては悪事を働いていた。 頼光と四天王は酒呑童子を見事に退治した。
 さて、広重の描いた柏原宿だが、金太郎が坂田金時と名乗ったことに関係がありそうだ。柏原宿は近江国坂田郡にあった中山道60番目の宿場なのである。広重は、金太郎を描くことにより、金太郎→坂田金時→坂田郡柏原という絵解きを仕込んだのではないだろうか。「酒さかな」「金時のちや」の行灯も坂田の連想を手助けしているように思う。ただ、現時点で「金時のちや」の「の」だが、平仮名の「の」であるかどうかは自信が無い。

芦柄神社
江戸時代は足柄神社。明治初年、神に足という字はよくないからと、豊芦原の「芦」の字を用いるようになった。

 ところで、長浜の西黒田に金太郎伝説がある。以前、「一つ目小僧」というタイトルで金太郎伝説に触れたことがあった。金太郎伝説の部分だけ再掲しておく。
 平安時代中期、天暦9年(955)に近江国坂田郡布勢郷に生まれた。金太郎の出自は明らかではないが、当時この地に勢力のあった息長氏の一族といわれている。この地は製鉄業が盛んで、青年となった金太郎は鍛冶屋で働くことになり、「金の文字の腹掛け」「赤い肌」「鉞」のイメージが生まれた。
 源頼光の家来となり、上京後、金太郎は名を坂田金時と改め、正暦5年(994)、金太郎が住んでいた村の人々を苦しめていた、伊吹山の山賊を退治し、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに、頼光の四天王と称されるまでになる。
 退治するのは、大江山の酒呑童子ではなく、伊吹山の山賊なのである。
 西黒田には製鉄の痕跡が少なからず残っている。「灰原」「タタレン」「穴伏」「焼尾」などの字名。鍛冶屋が軒を連ねていたという布施町の鍛冶屋場庄司(かんじゃましょうじ)など。後鳥羽上皇が佐々木定綱を奉行に鍛冶番匠を従えて名刀を打たせたという記録も残っている。更に、足柄神社(七条町・八条町・本庄町に三社)、熊岡神社があり、奉納相撲も今に伝えている(足柄山は現在存在しないが小字名は残っている)。
 そして、実に面白いのは大江山の酒呑童子の出生について、近江国(滋賀県)伊吹山、井口とする説があるのだ。酒呑童子の出生については、次回報告する。
 広重は西黒田の金太郎伝説を知っていたのだろうか?

小太郎

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