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半月舎だより 9

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年6月16日更新

のらくろが見ている

 店に入って本棚を見回したお客さんに、「ここの本は全部売っているの?」と聞かれることがある。この店の何がお客さんにそんな質問をさせてしまうのか…と思いつつ、「はい、だいたいの本は」とわたしは答えている。そう、本当は、売っていない本も棚にある。
 そのうちの一冊が、「のらくろ漫画全集 少年倶楽部名作選 別巻」(田河水泡著、講談社、昭和42年)である。ほとんどバックヤードと化している、一番奥の薄暗い棚の一番上、誰の手も届かない高い場所に置いている。そんなふうに置いていてもめざといお客さんにはよく見つかって、「あの本見せてもらえますか?」と言われてしまう。そんなときには、「すみません、売り物ではないので、見てもらうだけになるんですけど、いいですか…」などともったいつけるようなことをもごもご言いながら、椅子にのって本をおろすことになる。
 この「のらくろ漫画全集」は、昭和6年、当時の少年たちの主読誌だった「少年倶楽部」誌上で始まり、昭和16年、当時の内務省から「この戦時中に漫画などというふざけたものは掲載を許さん」という圧力を受け、打ち切られるまでの「のらくろ」シリーズ全話をおさめたものだ。同書におさめられた元少年倶楽部編集長 加藤謙一の「のらくろ覚え書き」をひらくと、「時代は昭和のはじめだから、日本じゅうどこにでも兵隊さんがあふれていた。子どもの遊びといえば戦争ごっこしか知らない時代でもある。その軍隊を背景にした漫画である上に、子どもの大好きな犬が主人公というのだから条件は揃っていた」と回想している。そんな時代を背景に、黒いのら犬「のらくろ」が、「猛犬連隊」でとぼけた活躍を繰りひろげ、愉快に手柄をあげて出世していくさまは、当時一世を風靡したという。戦後は復員したのらくろが職を転々とする続編漫画も発表され、アニメ化もされたので、それらの印象が強い人も多いだろう。
 「のらくろ漫画全集」は、少し調べれば、手の出る価格で販売されている本である。売らないのは稀少だからではない。大切なものだからだ。
 この本は半月舎をはじめて間もなく、かつて彦根で映画館を経営していた人が、まちを離れるときにくれた本だ。わたしが古本屋をはじめたころに引越しの準備をはじめられたその方が、「本、探したけどこれしかなかったわ。あのひと、この本を妙に大事にしてて」と、ご主人が持っていた「のらくろ漫画全集」をゆずってくださったのだ。
 学生時代、わたしはその方とご主人が映画館を経営されていた頃のお話を聞いて、そのおもしろさにすっかり魅せられてしまった。その後、のらくろと同じ昭和6年生まれだったご主人は亡くなった。結局たった一度お会いしたきりだったが、ご主人のお話がどうしても忘れられず、伺ったお話を書き起こした小冊子を出させてもらった。ものぐさで散漫な傾向のつよいわたしが、自分で文章を書いてなにかしようとした最初だったと思う。また、彦根に残されているものを、なんらかの形で次につないでいきたいと小冊子づくりの過程で考えるようになり、古本屋をはじめたのにはそういう思いもあった。小冊子の表紙にも、わたしは「1」と数字をふった。まちのひとの語りを聞き書きしてシリーズ化しようと思っていたためだ。
 先日、久しぶりに「あの本見せてもらえますか?」と聞かれ、「のらくろ漫画全集」をおろした。のらくろと目が合う。のんきな笑顔ののらくろは、わたしを責めたりしないけれど、小冊子のシリーズ化も頓挫したまま、楽しく散漫な日々を繰り返していることをふと省みることになる。

M

編集部

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