湖東・湖北 ふることふみ32
井伊家千年の歴史(18)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年5月2日更新

 静岡県御前崎市の新野地区。JR菊川駅からバスに揺られること30分で茶畑が広がる静かな町に到着する。ここが井伊直虎の母祐椿尼とその兄である新野左馬助の育った場所である。
 新野家は『吾妻鏡』には既に記録された遠江武士ではあるが、左馬助は今川氏の血縁であることからどこかの段階で新野家が地元の武士から今川氏一族に替ったと考えられる。
 直虎の伯父となる新野左馬助は親矩という名を持っている。今川一門として新野を治めていたが、井伊直平が今川氏に降った後に目付として井伊谷に住むようになったと言われている。このときに妹を井伊直盛に嫁がせ、自らは奥山朝利の妹を妻とした。今川義元に派遣されながらも婚姻関係を深く結び井伊家の後ろ盾となった左馬助は井伊家が今川氏と揉めるたびに井伊家を救うために奔走した。しかし、井伊直満と直義は謀反の疑いで殺され、直光の子直親も暗殺されてしまうなど左馬助の力が及ばずに井伊家の人々は次々と命を落とすのだった。左馬助は井伊家にとって最後の希望である虎松(直親の嫡男・のちの直政)の助命を命がけで懇願し許され、後見人となって虎松を自らの屋敷で育てるのだったが、井伊家を継いでいた老将直平が不可解な死を遂げ、中野直由と共に井伊家を支える柱石となった。この頃の歴史は井伊家に厳しい試練を与えることを課題としていたとしか思えないくらいに残酷な運命を課す。今川氏真から離反した飯尾連龍の籠る引馬城攻めが井伊家に命じられ、出陣した左馬助と直由は戰の最中に安間橋で討死したのだった。虎松は2歳で父を、3歳で曽祖父、四歳で後見人と3年間で大切な人々を失い続けるのだった。
 なお、左馬助の家は男子一人が後の戦で討死し滅びるが娘が7人育ち、木俣守勝や庵原朝昌といった彦根藩の重臣になる人物に嫁いだ者、守勝の養子となり木俣家を継ぐ守安を産んだ者など井伊家にとって強い繋がりの要となったのだった。彦根藩では江戸期を通して井伊谷を治めていた頃の井伊家の検証を行っていた。その所縁で11代藩主井伊直中は自らの息子に新野家再興させた。新野家伝来の品を受け継いだ新野親良は彦根龍潭寺に左馬助の墓を建立する。また親良の弟で彦根藩を継いだ直弼は長野主膳に御前崎の新野を調査させて左馬助の墓を発見させた。直弼自身が墓参りを希望するが果たされることなく桜田門外に散ったのだった。
 最後に、毎年4月第2日曜日には左馬助を祀った左馬武神社で『新野左馬助公献茶式』が開催される。地元で収穫された茶葉を奉納し、茶業の専門家によって淹れていただいたお茶を左馬助の墓前でいただく。今年は『おんな城主  直虎』で左馬助を演じられた苅谷俊介さんも参列されて左馬助への想いを話された。井伊直弼が果たせなかった墓は、地元の熱意で素晴らしい伝統を繋いでいるのだ。

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