城西小学校北門は近代化遺産か!?

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年4月13日更新

 僕は彦根の城西小学校の出身だが、古写真を見ていたら尋常小学校時代のものが2枚あった。現在の北門が映っていて、1枚は片側の門柱に「彦根西尋常小学校」の看板が、もう1枚は両側にそれぞれ「彦根西尋常小学校」「彦根西青年学校」の看板が掲げられていた。疑問符が溢れた。現在の城西小学校の正面玄関は南側、昭和新道に面しているのだ。何故だろう?
 城西小学校の歴史は古い。彦根西尋常小学校の創立は明治26年(1893)。明治40年(1907)彦根西尋常高等小学校にかわる。明治41年(1908)、高等科が廃止され、彦根西尋常小学校にもどる。昭和16年(1941)彦根西国民学校にかわる。
 青年学校は、昭和10年(1935)に公布された青年学校令に基づき設置され、国民学校令の施行まで続くから、写真の1枚は、昭和10年から昭和16年の間に撮られたものであることが判る。
 「彦根西尋常小学校」の看板だけが写る写真は、少なくとも、明治41年〜昭和16年の間に撮られたものか、或いはひょっとすると、明治26年〜明治40年のものということになる。驚いたのは2枚の写真に写る正門の一部が今も残っているのだ。現在の写真を撮ってきたので見て欲しい。この2段の石垣と斜めになった土塁のようなところ、その上の植栽を施したスペースが尋常小学校時代のものと変わらないのである。古写真は2段の石垣の上に斜めの土塁が続いている。
 では何故、正面が北側だったのか…?
 新修彦根市史景観編には次のような記述がある。
 『昭和九年から十年にかけて、土橋町から池洲町、そして中藪町に昭和新道が建設された。土橋町より左折して東へ延びる町は川原町といって、久左の辻に続く彦根一の商店街で、のちに銀座街と呼ばれた。逆に土橋町から西に延びる道は、彦根城の外堀に沿って、幅一間半の細い道が付いているだけで、その道の西側は芹橋八丁目から池洲町まで足軽組屋敷地の東側面にあたっていた。昭和新道は外堀を埋めて幅四間の道路を造ると同時に、道の東側には、その道に面する市街地を造成していったのである』。
 城西小学校の敷地も外堀の埋め立て地の一部を利用しており、幅四間の道路は今もそのままである(四間は約7・2メートル)。
 ということは、彦根西尋常小学校当時の南側は外堀であり、外堀の埋め立ての後に正面が変更されたということになる。正面玄関がいつまで北門だったのか、その年代が気になるところだが、とりあえず僕の疑問は解消された。
 さて、この北門の遺構を近代化遺産として良いかどうかだが、昭和新道が作られる当時と学校制度の変遷を辿ることができる故、立派な近代化遺産であると考える。実際、尋常小学校の遺構が今も残る学校は少ないのではないだろうか。これからもずっと残るといいが……。

小太郎

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