湖東・湖北ふることふみ29
井伊家千年の歴史(15)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2017年2月17日更新

井伊直親の墓(中央)と直虎の墓(右から2番目)

 前稿まで、井伊家が誕生してから井伊直政が徳川家康に仕えるまでの565年の歴史を紹介した。今稿からは井伊直虎とその周辺の人物に焦点を当てて紹介したい、その過程で前稿までと重複する話が多用されることをお断りする。

 まずは井伊直虎。
 井伊谷龍潭寺が作成した年表では直虎の生年は天文5年(1536)で許嫁の井伊直親の一歳年下としている。一方、直虎があまり世に知られていなかった頃には、直虎の生年を享禄3年(1530)として直親の5歳年上との説も流れたことがあった。これは直虎の名前に使われている虎の字が寅年生まれを連想して唱えられた説と考えられる。直虎の生年や幼名・本名について伝える記録はない。
また井伊家の記録には直虎という名は出てこない、次郎法師の署名と黒印が押された文書以外に次郎直虎と署名と花押が書かれた古文書が現存しているため次郎法師と直虎が同一人物であることが理解されただけなのだ。
 さて、井伊直虎の人生を直虎が生きた時代の資料から見つめることは難しいため、これから書くことは一般的に言われていることであり確定したものではないという言い訳をお許しいただきたい。
 直虎は井伊家宗家である井伊直盛の一人娘として誕生する。母は新野親矩の妹だった。直盛は側室を持たなかったために直虎以外に子どもを授かることがなく、井伊家宗家の血を繋ぐために、従弟の亀之丞(直満の息子)を直虎の許嫁とした。
 しかし、亀之丞が九歳の時、今川義元の命で直満が殺害され、亀之丞は信州伊那の松源寺に逃れ、行方不明となった。直虎は許嫁が居なくなったことに悲しみついに出家を決意する。これを直盛は許さず、井伊一族で菩提寺龍泰寺(直盛の死後は龍潭寺)の南渓瑞聞に相談すると、南渓は「備中次郎と申す名は井伊家総領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家総領に生まれ候間、僧侶の名を兼ねて次郎法師とは是非なく」と話し命名した。井伊家研究の中で「彦根藩主を務めた人物に備中次郎を名乗った者はおらず、これは伝承の域を出ない」との意見があるが、備中次郎で一つではなく「備中守」と「次郎」のことであり、備中守は井伊家初代共保と養父共資の官職、次郎は南朝に属した井伊家が新田義貞から与えられたと伝わり、どちらも井伊家にとって大切な名だった。しかし彦根藩井伊家は徳川家康に仕えた直政を藩祖としている、直政は家康に「万千代」の名を与えられているため、この時点で井伊家の歴史は改めてスタートしているのだ、彦根藩主たちが備中次郎を引き継がないことこそが井伊家が大きな災いの後に復活を遂げた象徴でもある。
 こうして、出家して俗世から離れた直虎に許嫁帰国の報が届いたのは、亀之丞失踪からあしかけ11年後のことだった。

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店舗等の情報は取材時のものですので、お訪ねになる前にご確認ください。

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