湖東・湖北ふることふみ26
井伊家千年の歴史(12)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年11月4日更新

浜松市北区・井殿ノ塚(井伊直満・直義の墓)

 三岳城を追われ伊平で逼塞していた井伊直平は今川家の内紛によって再び井伊谷に戻ることとなる。
 今川氏親が没した後、息子氏輝が母の寿桂尼の後見で政治を行っていた。これが女戦国大名と呼ばれる人物であり今川家には女性でも政治を行う前例があったために井伊直虎も女地頭として容認される地盤があったのではないかとの説がある。それは後年のことだが氏輝は急死し、弟たちが家督を巡って戦う花倉の乱が勃発、一説ではこの時に勝者となった今川義元に味方し直平に井伊旧領が戻されたとも考えられている。この頃、直平は娘を義元へ人質として送った。その娘は義元の側室となったのちに関口義広(今川了俊の子孫)に下賜され一人の女の子が誕生する、この娘が徳川家康の正室となる築山御前であり、数奇な運命がのちの井伊直政の人生にも大きな意味を成してくるのだ。
 さて、話は直平の時代に戻る。井伊谷に返り咲いた直平だったがその立場は今川家の外様という立場であった。しかし義元が今川家を継いだ翌年には北条氏綱が今川家から独立し河東一乱が勃発、氏綱は奥平定勝(奥三河の国人)に対して井伊家と協力して兵を起こすように促していて、井伊家が今川家に臣従していた訳ではなかったようだ。
 この頃の義元は三河国侵略を目標としていて、国境に近く新参者の外様豪族である井伊家は義元に先鋒を命じられ三河へ出兵した。この戦いで直平の嫡男直宗が討死。家督はその子直盛に引き継がれる。直盛は今川一族で重臣でもあった新野左馬助親矩の妹を正室に迎える、この間に生まれた唯一の娘が直虎になる。
 のちに直虎と名乗る井伊家嫡流の女性の幼名や本名は現在に伝わっていない(今後は、一部の期間を除き直虎との表記で統一する)、正確な生年月日も記録には見当たらずすべては想像の領域を出ることはないが、一般的には許嫁となる井伊直親とそれほど年齢が離れてはいないのではないかとされていて、直親の誕生した天文4年(1535)頃ではないかとも考えられている。もしそうならば直虎は物心がついたあとで祖父直宗討死の報せを聞いたことになり幼心に大きな傷ができたのではないだろうか?ただそれはこれから直虎と井伊家が受ける沢山の悲しみの序章でしかなかったが、そんなことは夢にも思わない井伊家では直盛に娘しか生まれなかったことを心配して、従弟の亀乃丞(井伊直親)を婿養子に迎えて井伊家を相続させる話があがり、直虎の将来は希望に満ちていた。しかし、天文13年(1544)直宗の弟の直満(亀乃丞の父)と直義が今川義元の呼び出しを受けて駿府で殺害され、井伊家に対しては亀乃丞殺害が命じられた。直平や直盛、直平の養子の南渓和尚(龍潭寺二世)は、秘密裏に亀乃丞を信州の松源寺に逃がしたのだった。

 

編集部

スポンサーリンク
関連キーワード