湖東・湖北ふることふみ24
井伊家千年の歴史 10

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年9月8日更新

新田神社の井伊弾正左衛門肖像画

 井伊谷の井伊家は今川了俊に九州まで遠征させられ、それまでの意に反して懐良親王と戦うことになり多くの犠牲者を出す結果となった。
 その少し前、別の井伊一族の名前が『太平記』に記されている。新田義貞の次男義興が関東で戦っていたとき義興軍の猛将として登場する井弾正である。新田義興は北畠顕家の上洛に同行し青野原の戦いに参加した人物であり、遠江の井伊家が北朝に降伏し関東に逃れた宗良親王を奉じて一時は鎌倉を占領するほどの勢いを持っていた。しかし、すぐに鎌倉を追われてしまう。そんな義興が再び鎌倉を狙ったため、関東管領畠山国清の家臣の竹沢右京亮は、謀略で多摩川矢口の渡しにおいて義興主従13名を底に穴が開いた舟の上に孤立させ、両岸から矢を射て討ち取ったのだった。
 このとき、井弾正は義興を肩車で抱え上げて切腹の名誉を与えたのちに遺体を川へと投げ入れた。そして弾正も腹を切り首に刀を突き刺し自ら髻を握って首を後ろに引きちぎって果てたのだった。
 井弾正は、井伊直秀ではないかと言われている。どのタイミングで新田義興に仕えたのかは不明だが、井伊家は義貞にも仕えていて、武勇を賞されて”次郎“の名を与えられたとの伝承もある。これが戦国期にも「井伊家当主は代々次郎を名乗っている」との伝統に繋がっている。義貞に仕えた井伊次郎の一族がそのまま義興に仕えたと考えるのが自然かもしれないが、宗良親王が井伊家の人々を引き連れて青野原の戦いに参加したと考えればこのとき一緒に戦って仕えるようになったのかもしれない。新田義興の最期を見事に演出し『太平記』にもその勇猛さを記された井弾正は、北朝に降った井伊家がそれでも南朝に尽くした勤皇の家としての誇りを持ち続けられる証となった人物だったのだ。
 さて、義興主従が亡くなった地に現在は新田神社が建立されていて、境内には義興の墳墓があり、宝物殿には義興に関わる遺物が残されている。そのなかに明治時代に描かれた『前賢故実』巻第十から写した義興主従の肖像画があった。宮司さんのご厚意で井弾正の肖像画を掲載させていただけることになった。柱にもたれかかり愁いを帯びた目でどこかを見つめる井弾正の姿はこの後の長い時間を耐え忍ばなければならない井伊家そのものにも見えてこないだろうか?
 こののち、南北朝時代の終焉と時期を同じくして、井伊家は他家の記録にほとんど登場しない100年の空白がある。明応7年(1498)大地震によって引き起こされた津波により新井崎が崩壊、浜名湖が太平洋と繋がり、東海道が浜名湖の北を通らなければならなくなった。井伊谷周辺が突然交通の要所となることで井伊家は再び歴史の渦に飲み込まれることとなる。

古楽

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