湖東・湖北ふることふみ22
井伊家千年の歴史 8

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年7月13日更新

井伊谷龍潭寺の宗良親王の位牌

 南北朝時代に数々起った戦いのうちで、特に重要となる一つが青野原の戦いである。延元三年(1338)1月、奥州で戦っていた北畠顕家は畿内での南朝方の不利を助けるために軍勢を都へ向けて猛進させ、関東や東海道で味方が集まり軍は拡大した。北朝に属していた今川範国は、顕家の軍勢を後ろから追う形で戦いを仕掛け、そして美濃国青野原(大垣市)において北朝の土岐頼遠・高師兼(高師直の従弟)らの軍勢に範国が合流し顕家との決戦におよんだのだった。
 青野原は関ケ原の東側にある。平成28年4月に「関ケ原合戦は、その直後に青野カ原と記されていた」とのニュースが出たが、戦国時代の人々が南北朝時代の古戦場という予備知識を持っているくらいに有名な戦いであったという証拠でもある。
 戦いは、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ勢いも数も勝っていた南朝軍が勝利を収め北朝軍は崩壊。驚いた足利尊氏は高師泰(高師直の弟)や佐々木道誉らを関ケ原の黒血川に向かわせたが、なぜか顕家はこの軍を避けて南下し1か月後に奈良般若坂の戦いに敗れ、泉堺浦で討死する。この顕家の軍勢に遠江で合流し般若坂の戦いの後に義良親王を南朝の拠点である吉野まで送り届けたのが宗良親王だったとされている。
 青野原の戦いの少し前、後醍醐天皇の皇子として南朝方の拠点の一つである遠江に派遣されていた宗良親王は、井伊道政・高顕親子に迎えられ奥山に入り道政の娘(駿河姫、重姫とも呼ばれる)との間に尹良親王が誕生している。井伊家は、北畠顕家の父・親房が「東国の敵は“井ノ輩”に任せれば遠江以東は静かになる」と書いているくらいに頼りにされていた。対する北朝は、今川範国や佐野大輔が井伊家の城を攻めていて、三方ヶ原や三岳城で戦っている。これらの戦いは顕家の進撃に親王が合流し、範国が追う形で離れてゆく。この時に井伊家からも親王に従った者がいたと考えられるが確たる資料はない。一時の穏やかな時間があったが、顕家が討死した後に奥州へ向かうことになった親王が遠州灘で暴風に遭い白羽湊に漂着、三岳城に入城し騒乱も帰ってくる。
 同じ頃、青野原の戦いで敗れはしたものの北畠顕家の行軍ルートを阻んだ活躍を認められた今川範国が遠江守護職に任ぜられ、青野原で敵対した宗良親王と範国が遠江で戦火を交えることになり、井伊家は三岳城を中心に支城を周囲に築城して守りを固めたのだった。
 遠江の南朝拠点を問題視した足利尊氏は守護を仁木義長に変えて、高師泰・師兼らと共に井伊家を攻めさせた。必死の抵抗もむなしく延元5年正月に三岳城は落城し大平城に逃れた親王と道政は7か月抵抗するが降伏する。
 この後、親王は信濃へ逃れて戦い続けたとも井伊城中で亡くなったとも言われていて、明治になり井伊直憲が資金を出して龍潭寺の寺域に井伊谷宮を建立し、宗良親王陵として新政府によって所管されるようになったのだった。

古楽

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