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井伊家千年の歴史(7)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2016年6月13日更新

三岳城跡

 元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡。私たちは一つの武家政権が終焉を迎える時、そこに仕えた人々や最高権力者の一族が一緒に歴史から消えるようにイメージしている。しかし幕府終焉において権力者一門に大きな悲劇が起こったのは北条氏のみであり、室町幕府や江戸幕府でも終焉時に将軍の命は長らえている。この点において鎌倉幕府の滅亡は政治の大転換期であり、その流れに反発した武士が南北朝時代という動乱を引き起こしてゆく。
井伊家の歴史を俯瞰すると、南北朝時代が後々までの井伊家の方向性を決める影響力を持つことになったのがうかがえる。
 さて、南北朝の騒乱といえば、天皇親政を目指す後醍醐天皇と、武家政権維持の必要性を説いた足利尊氏が招いた混乱の時代とおもわれがちだが、実は天皇家の内紛にその原因がある。後醍醐天皇の曽祖父後嵯峨天皇に母を同じくする二人の皇子がいた。この兄弟の弟を溺愛した後嵯峨は、まず兄に即位させた(後深草天皇)が、14年後に弟に天皇の位を譲らせ(亀山天皇)、その子を皇太子にしたのだった。後深草は後嵯峨の崩御後にこのまま亀山系で天皇の位が続くことに不服を覚え、鎌倉幕府に訴え出て何度かの騒動ののちに天皇の位は後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)が10年交代で即位することと決定する。大覚寺統の後醍醐はこのルールに不満を覚え、倒幕の意思を固め実行したのだった。しかし、持明院統から見ればやがて皇位が来ると思っていたら後醍醐の勝手な行動によってルールが無視された形になったので足利尊氏の誘いに乗り尊氏の都合がいい天皇として即位するのである。こうして後深草系―持明院統―北朝と亀山系―大覚寺統―南朝が誕生した。
 この頃、天皇家も独自に荘園を管理していて後嵯峨が崩御したときに後深草・亀山兄弟は荘園を分けて相続した。南北朝初期において荘園とその地の豪族とが密接な関係を結びそれぞれの朝廷に味方したと考えられていて、井伊家もその例に洩れなかった。
 井伊谷の近くにある気賀荘や都田御厨などが南朝方の荘園であり、井伊家は自然の流れの中で南朝に従うようになっていったのだった。このときの当主は10代井伊直行だったと言われている。
 鎌倉幕府滅亡と後醍醐による建武の親政の失敗によって全国に広がった内乱は遠江国内でも他人事ではなく、井伊家も井伊谷より険しい山に三岳城を築城、周囲には出城を幾つも築いて戦いの準備がなされてゆく。同じ頃、京都で戦う南朝の有力武将新田義貞の軍勢に井ノ次郎という人物の名前も見ることができるのだ。井ノ次郎に関してどの人物であるかは特定されていないが、個人的には後に渋川氏を称する上野氏の一人だと考えている。
 そして遠江では、この先井伊家と長く深い因縁を持つ駿河今川氏の初代当主今川範国が北朝の遠江守護職として井伊家に対峙したのだった。

古楽

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