井伊家千年の歴史(3)

湖東湖北ふることふみ17

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 2016年1月20日更新


京都の三条東殿跡(現・新風館)

 井伊家の系図では、初代井伊共保の後に2代共家、3代共直と「共」の字を継いだ当主が続くが、4代惟直、5代道直、6代盛直と共直を境に「直」の字が引き継がれるようになってゆくことが見えてくる。
 さて、彦根藩が編纂した『井伊家傳』では初代共保が亡くなった寛治7年(1093)から急に井伊直平が引馬城を預けられる永正2年(1505)まで飛んでしまうため、他の資料から400年近い空白を推察しなければならない。
 その資料となる一つが鎌倉時代に書かれたと推測されている軍記物語『保元物語』なのだ。保元元年(1156)に起こった保元の乱とその前後を記した物語であるため多くの武士が登場する。例えば近江の武士として後の佐々木源氏に繋がる佐々木源三秀義の名前も挙がっている。
 この『保元物語』の前半に後白河天皇が内裏から三条東殿に行幸し源義朝や平清盛らが」これに従った。300騎を超える義朝の軍勢の武士の中に先ほどの佐々木秀義や、遠江の「井八郎」が登場する。
 井伊家は時として「井」とのみ姓が記されることがあり、この井八郎は井伊家の誰かと考えて間違いないとされているが、系図に記された誰であるのかは解明していない。当時は井伊家当主の通称が「九郎」だったと伝えられていて、系図には記されていない井伊家一門であった可能性も否めないのだ。また井八郎と共に遠江の武士として横地・勝俣(勝間田)という名も挙がっている。横地家の記録ではこの三家は井伊家が伝える藤原後胤説ではなく源義家(後三年の役で活躍した武士)の孫であるとの伝承を残している。出自に多少の違いはあるものの、この時期に遠江国(静岡県西部)は井伊家とその親類が力を誇っていた可能性が高いと言える。
 どのような形にしても源義朝に従った武士として登場する井八郎だが、『保元物語』の記述はこの一か所のみであり、この後にどのような活躍をしたのかは想像するしかない。次稿で鎌倉時代の井伊家について触れるが、井伊家は大いに評価されている。逆説的に、鎌倉時代の井伊家があるからこそ、保元の乱に関わった武士として井八郎を記したとも考えられる。そうであるならば井八郎は源義朝と共に行動したのであろう。
 保元元年7月11日明朝、三条東殿や隣接する高松殿に終結した義朝・平清盛・源頼政らの武士団は崇徳上皇が籠る白河北殿に夜襲をかけて上皇を捕えて勝利を収める。三年後の平治の乱では義朝と清盛が戦い、敗れた義朝は東国に戻る途中、尾張国(愛知県西部)で暗殺され家臣たちは平家が謳歌する世の中で肩身が狭い思いをしながら過ごすこととなった。
 保元の乱で源義朝と共に勝利を経験した井八郎は、平治の乱をどう戦い、そして敗れたのか? もしかすると命を落としたのか? 現在の資料は何も教えてはくれない。

古楽

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