湖東・湖北ふることふみ13
江戸後期のスイーツ

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年9月21日更新

筆者が再現した冷瓏豆腐

 『井伊直弼公生誕200年祭』が行われている。その中の企画として『ひこね菓子』という井伊直弼や茶の湯に合った菓子を創作するイベントの選考会が九月二日に行われた。今稿では井伊直弼が誕生した頃に食べられていたと考えられる一つのスイーツを紹介したい。
 『豆腐百珍』という本がある。天明2年(1782)刊行。10代将軍徳川家治の下で老中田沼意次が政治を行った田沼時代の真っ最中であり、天明の大飢饉が始まろうとしていた時期。そして、彦根藩主は10代藩主井伊直幸(直弼の祖父)だった。田沼時代は比較的自由な時代であり、民衆はさまざまな文化を広げようとし、文化を追いかけるようにグルメにも大きな関心が寄せられたのだ。この集大成として多種多様の豆腐料理が一冊の本にまとめられたのだった。
 そんな『豆腐百珍』に「奇品」として紹介されている料理の一品が  冷瓏豆腐(こおりとうふ)  という甘味だった。
 紹介されたレシピは「かんてんを煮ぬき其の湯にて豆腐を烹しめさましつかふ調味このミ随ひ」のみ、もう少しわかり易く直すと「寒天を煮詰めて、その湯に豆腐を入れてから冷まし、好みの味付けで食べるべし」としか記されていない。これだけの内容では甘味と断定する材料は少ないが、寒天と甘い蜜を合わせた甘味として心太が思い出されるように、この冷瓏豆腐にも蜜がかけられて甘味として食べられていた可能性は高いのだ。
 『豆腐百珍』は江戸で大流行したレシピ本だが、冷瓏豆腐は大坂が発祥との説がある。当時の豆腐は江戸が木綿豆腐、上方が絹豆腐だったので、上方では弾力がある寒天部分と柔らかい豆腐の噛み応えの差も楽しんだと考えられ、江戸の木綿豆腐ではその楽しみが上方ほどではなかったかもしれない。それでも『豆腐百珍』を参考にしながら江戸時代後期から幕末の人々が口にした料理の一つだったことは間違いない。

 現在『豆腐百珍』のレシピは料理研究家によって再現されている。冷瓏豆腐もその例に漏れず再現が試みられ数々の現代風アレンジが加わった料理となっている。私も再現を試みた一人である。敢えて上方風の絹豆腐を使い、「冷瓏」を「氷」と解釈して水無月の菓子のように三角形に拘った。水から煮立てた寒天を豆腐の周囲に型を作り流し込み、冷やすことによって白い豆腐の周りに透明の枠ができる見た目に涼しげな料理が完成した。ここに黒蜜を添えると見事なスイーツとなった。
 『豆腐百珍』が刊行され40年近く過ぎた頃に直弼が誕生している。江戸の町の食通たちは奇品と紹介されたレシピに興味を示して作らせたのではないだろうか? 井伊直弼が生きた時代のスイーツは、現代人が食しても懐かしさと奇抜さが味わえる面白い物だった。

古楽

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