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鬼債ない

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年8月12日更新

 「鬼催ない」と書いて「きせない」と読む。かつて、彦根には「きせない祭り」或いは「きせない行列」という夏の祭りがあったと聞いていた。町ごとに行われていた少女達の夏の祭りだというだけで、起源も様子も判らなかった。ずっと気になっていたのだが『彦根藩士族の歳時記 高橋敬吉』(藤野滋編 サンライズ出版)に記してあった。高橋敬吉は、大正4年(1915)、井伊家当主直忠の懇望により当時7歳だった直愛・直弘の双子の兄弟の家庭教師となった人物である。この本は高橋敬吉が遺した『幼時の思ひ出  附我が家の年中行事』と『吾家の思ひ出』を再構成したもので、明治10年〜20年代の彦根の城下町の風俗習慣が記録されている。高橋は「彦根は城下町だけにほかにはない行事もあるのでこれを永く伝えるつもりで書きはじめたものです」と語っている。歳時記を読んでいると新しい発見や再発見が数多くある。「きせない」もそのひとつだ。
 「きせない」とは江戸幕府の奢侈禁止令(しゃしきんしれい)と、井伊家が質素倹約を旨としたから、「着せない」だろうと想像する人が多かったが実はそうではなかった。
 「一年二期の総決算である盆の掛取りもすみ、中元の贈答も了えた町家では、八月の一日と二日を盆として休み(中略)、此の日の暮れ方になると、組邸や町の娘子(じょうし)はサッと一風呂浴び(中略)、髪をきれいに結い、コッテリと白粉を白壁の様に塗り、首筋に三本の白い足を描き、絽や縮緬のきれいな着物を着飾り(中略)、五六歳から十四五歳位のものが年の順、背丈の順に並び、互いに手を繋ぎ合って、きせないきせない、の唄を合唱し乍ら京都の舞妓の様な風で町を練って歩く。十五六歳からの年上の娘も出来る丈の盛装して、黒骨紅金地の扇子をかざし練り歩く」
 情け容赦なく借金を取り立てるさまを鬼にたとえて「債鬼(さいき)」というから「鬼催ない」の意味を想像するにはそう難しいことではないだろう。そして、「きせない」祭りは質素倹約どころか豪華な行列だったようである。
 「唄と行列は昔、井伊家御盛んの頃、太平の御代に何代目かの殿様の御発案で、唄も殿様のお作りになったのもあるとか。町の女にお花見奨励されたと一対で、太平の御代の夏気分の横溢した見物の一つであった」とも記している。横溢(おういつ)は、気力などが溢れるほど盛んなことをいう。昭和初期まで続いていたという「きせない」祭りを記憶している人はまだ多くおられることだろう。その記憶を辿ってみるのもいいかもしれない。

小太郎

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