彦根・大洞弁財天 鉄砲塔

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年7月22日更新

 彦根城の北東、表鬼門の方角約1.5キロ。佐和山から連なる大洞山(211メートル)の中腹に大洞弁財天(真言宗醍醐派長寿院)がある。かつては山裾まで内湖が迫り、城主は船で参詣したといわれている。大洞弁財天堂(県の重要文化財指定)の創建は、元禄8年(1695)、京都・大坂など上方を中心に元禄文化が華開いた頃だ。当時の彦根藩主は4代目井伊直興である。
 直興は、日光東照宮修造の惣奉行を務め、槻御殿(玄宮楽々園)造営や松原港、長曽根港も改修した当時の建設事業第一人者である。その直興自らが院主となり、彦根城の鬼門除けと領内の安泰を願い、近江代々の古城主の霊を弔うために建立したのが大洞弁財天である。弁財天堂横の阿弥陀堂には、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三尊が祀られた。「大洞の弁天さん」と親しまれているから、本尊は弁財天だと思っている人も多いが、釈迦三尊が本尊である。
 釈迦三尊を祀る本堂に向かって右側に供養塔のようなものがある。記事にしたいのでと大洞弁財天岡田建三住職に尋ねると「鉄砲塔」という名前であることが判った。そして、ご親切にも『城と湖のまち彦根 歴史と伝統、そして』(中島一著・サンライズ印刷出版部)に記された「鶴の供養に建てたという大洞弁才天」(「財」ではなく「才」)の部分をコピーしてくださった。有り難いことである。
 「四代直興は、幼少から狩猟が好きで、松原内湖(大洞内湖)に舟を浮かべて鴨射ちをしたり、裏山に出かけることも再々でした。延宝4年(1676)に彦根藩主となってからも、お国入りして公務の間をぬって、側近を連れよく狩猟に出かけました。ある時、一羽の鶴を見つけ、これを鉄砲で射ち落としました。側近が獲物を急ぎとってきてみると、その鶴の片方の脚に金札がつけてありました。それはかつて源頼朝が富士の裾野で大巻狩りを行い、1000羽の鶴を捕まえました。この鶴一羽ずつその脚に金札を結び再び空へ放ち、この鶴を射落とした者は届け出るようにと諸国に命令を発した、その中の一羽であったことが知れました。頼朝から直興まで、なんと500年を経過しているので、この鶴は500年も生き延びたものと思われます。さすがの狩猟ずきの直興。この長命の霊鳥を自身の心ない遊びのために射ち殺したことを深く後悔し、己の罪ほろぼしのため、あまねく領民に命じて一人一文の喜捨をあつめ、大洞に弁才天を勧請することを発願したというのです」。
「巻狩(巻狩り)」とは、中世に行われた狩猟方法の一種で、狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める。歴史に名を残す「富士の大巻狩」は、建久4年(1193)5月に源頼朝が富士の裾野で行ったものだ。軍事演習のためとも、征夷大将軍の権威を示するためともいわれている。
 鶴の寿命は20〜30年だといわれている。直興には子どもが33人いたが、ほとんど夭折あるいは病身であった。鶴の供養のために建てられたものだが名前は「鉄砲塔」である。鶴は千年亀は万年…、その寿命に願いを託す生き物である。おそらく信心深い直興のことである。実際に琵琶湖に飛来した鶴を殺してしまい、自身の鉄砲を封印したのだろう。
 直興の諡号は「長寿院覚翁知性」という。大洞弁剤天は直興の思いを強く反映した寺であるようだ。「何故だろ?」と思ったことを調べていくと新しい発見に繋がるかもしれない。
 例えば、楼門の毘沙門天・堅牢地神の裏側には阿吽の白狐を配している。また、琵琶湖側の参道を登ると鳥居を潜り楼門に至る……。そして、本堂左側にも供養塔があるのだが、何なのか。機会があればまた記事にしてみたいと思っている。

風伯

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