湖東・湖北ふることふみ11
地震と豊臣政権

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2015年7月20日更新

 豊臣秀吉が最初に築城した伏見城である指月城の遺構が平成27年6月に発見され大きな話題となった。指月城は慶長伏見地震で倒壊し、その姿を後世に残さなかったために幻の城ともされていたが今回の発見で歴史の一ページが真実であったことを証明したのだ。
 指月城は地震で「天守上の二重ゆりおとし」と記録されるように天守が落ちて秀吉すら逃げ惑う事態となった。しかし、秀吉は築城時に前田玄以に対し「ふしみのふしんなまつ大事にて候」(伏見の普請鯰大事にて候)と地震を鯰に重ねて築城に地震対策が大切なことを説いた。そしてこの手紙が地震と鯰を重ねた最初の文献であり、この鯰がビワコオオナマズであると寒川旭氏が『地震の日本史』(中公新書)で示唆している。
 慶長伏見地震が起こる11年前、秀吉は近江国坂本城に居た。ここに岐阜県北西部を震源とするマグニチュード8クラスの巨大地震である天正地震が発生、秀吉は一目散に大坂まで馬を走らせて避難した。あとになって琵琶湖の鯰が地震の前に奇妙な行動をとった(自然界では動物が地震予知をすることがあるためか?)と伝わったのではないかとされている。

 天正地震は大垣城を倒壊させるほどの威力を持っていて、近江国内にもさまざまな被害を与えている。長浜城主だった山内一豊には御殿の倒壊で六歳の愛娘与祢を失うという悲劇も起こった。また未確認のままいただいたメールが管理元に削除されてしまい私自身はもう調べようがないのだが、岐阜県のどこかのお寺の記録に天正地震の被害地として佐和山も記されていると教えていただいたことがある。
 そして、長浜城近辺では村が琵琶湖に沈んだとの伝承も残している。よく知られているのは下坂浜と西浜村かもしれない。この二か所は調査によって村が沈んだ原因が天正地震であることが証明された稀有の例でありその成果がニュースにもなった。特に西浜村は長浜城より湖岸道路を少し北に進んだ場所に碑が建立されていて(調査により碑に記された埋没時期が変わってしまった)この地から琵琶湖を眺めると湖面が穏やかな日は湖に沈んだ遺構を観ることができるらしい。
 天正13年(1585)11月29日午後10時頃、突然起こった激しい地響きは翌日二時頃に大きな余震を引き起こす。この後は約一か月に渡りほぼ毎日近江近辺は揺れていた。近江平野はあちらこちらで液状化が起こり、村が沈み人々は村を捨てて移住するしかなかった。天下人秀吉も本拠地を坂本から大坂そして伏見へと移して行く。しかし天正地震で大きくずれた地盤は約30年の余震となって豊臣政権を襲う。慶長伏見地震はこの一つなのだ。皮肉にも天正地震の影響と思われる連続した最後となる高田領地震から半年後に豊臣家は滅んでいる。そして慶長伏見地震でずれた地盤は阪神淡路大震災の引き金になったとの説もある。

 

古楽

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