山組の個性

長浜曳山まつり

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 長浜市 2009年4月12日更新

 今年も曳山まつりの季節がやってきた。15日の本日では狂言が奉納される。今年の出番山は鳳凰山(祝町組)と、壽山(大手町組)、猩々丸(船町組)、高砂山(宮町組)だ。
 長浜曳山まつりの曳山は全部で13基あり、子ども役者が狂言を演じる舞台をもつものは12基。毎年四基ずつ登場し、3年ごとに出番を迎える。
 絢爛豪華な装飾が施された芸術品としての曳山、裸参りに見る若い衆たちの心意気、そして子ども役者のかわいらしい姿……。まつりのさまざまな見どころに、各山組ならではの個性を発見することがある。

猩々丸の朝渡り

 そのひとつに、猩々丸の朝渡りがある。15日の朝、役者が自町から長濱八幡宮へと歩いて渡る儀式だが、猩々丸では、行列の先頭に奴振りが加わるのだ。
 先箱、立傘、毛槍などといった七つ道具を、掛け声と手拍子に合わせて投げ交わし、持ち手が交替する。八幡宮の一の鳥居前では、薙刀持ちが薙刀を「入」の字を描くように振ってから鳥居に入る。
 猩々丸の奴振りは、1800年前後から行われているそうだ。他の山組にはなく、なぜ猩々丸だけで行われるようになったのか、その由来についてははっきりとしていない。猩々丸以外の曳山には後部に幟が立っているのだが、猩々丸にはないことから、その代わりとして七つ道具を立てたのではないか、また、行列に奴振りが加わることで華やかさを添えようという目的があったのではないか、と長浜市曳山博物館で教えていただいた。
 猩々丸のある船町は、現在の朝日町にあたる。北国街道沿いの地域だから、江戸時代には本陣や問屋などが軒を並べていた。そのなかには大名行列の人足、つまり奴を揃える問屋もあったそうだ。こんなところから、奴の存在や、奴がもつ七つ道具というものが、比較的身近に感じられる地域であったから、と考えることもできるかもしれない。

公家奴振り

 奴振りは米原宿の人々により行われていたが、天保14年から旧近江町の長沢の人々が担うようになり、現在に至っている。以前にもDADAで紹介しているが、長沢にある真宗寺院・福田寺は彦根藩主・井伊家との縁が深く、井伊直弼の従兄弟にあたる摂専も住職を務めている。また直弼が仲人役となって、摂専は京都の公家・二条家からかね子姫(「かね」は金偏に爾)姫を妻に迎えている。
 かね子姫が輿入れしたとき随従した供方が伝えたのが公家奴振りである。今日まで継承され、毎年春と秋に行列が再現される。奴振りの祭事は全国各地にあるが、公家奴振りは、日本で長沢だけだ。
つまり、猩々丸の朝渡りは、長沢だけにしかない公家奴振りを長浜で見ることができる珍しい機会なのである。

2008年の出番山のひとつ春日山の狂言奉納の様子

 狂言の外題から山組の個性が見られることもある。長浜曳山まつりは太平洋戦争で一時中断したが、昭和25年に復活。以降すべての山組の外題は、記録に残されている。この記録によると翁山(伊部町組)と月宮殿(田町組)は、過去に自町内で演じた狂言に、同じ外題が一度もない。昭和25年からの出番回数を単純に計算すれば、約20回。そのすべての外題が違うということだ。
 博物館職員で、田町組の一員である小池充さんは「子どもにも演じやすいような演目を新しく探してくるのは実際かなり大変ですね。でもずっとそうしてきたことですから。山組それぞれに個性や違いがあっても、ただひとつ確実に共通するのは、どの組も自分のところが一番!と思っているということです」と教えてくださった。
 ところで、まつり本日は、どの出番山も曳山の曳き手は、その山組の者ではなく、近隣の大学の学生や自衛隊員、労働組合「連合滋賀」の人々が務めている。しかし、猩々丸、月宮殿、萬歳樓(瀬田町組)については、「三山連合」という取り決めがある。この三つの山組は出番の年がそれぞれに違っているので、出番山でない組は、出番山の山曳きをする。曳き手をお互いに担っているということだ。
 阪神・淡路大震災のあった平成7年は、自衛隊が災害復興支援体制にあったため、曳き手が不足していた。それがきっかけとなり、このような連合が生まれたそうだ。長浜の駅前通りに並行して流れる米川を境に、南側に位置しているというのが、この三山の共通点である。曳山の名称に「山」とつかないのは、偶然なのだろうか……。
 脈々と受け継がれた歴史に、どの山組も自信と誇りをもっている。その自信と誇りが個性を育んできた。何せ、3年ごとにしか同じ山は登場しないのだから、春の長浜では、それを知り、見るのが何よりで、毎年楽しみが奥深まっていくのである。

【参考文献】

  • 長浜市史3・6
  • 長浜曳山まつり猩々丸パンフレット / 平成18年

 

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