湖東・湖北ふることふみ8 馬が愛した地・石馬寺

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 東近江市 2015年4月22日更新

石馬の池に沈む馬

 寒く長い冬が終わり、暖かく色鮮やかな春の空気を感じるとどこかに出かけたくなる。
 日本人ほど旅が好きな民族は世界中でも珍しいとされている。「それは江戸時代という長い平和が続いたことで習慣となった」との理由を挙げる研究者もいるが、それ以前から日本人は国の中を歩き回った人物が多く存在した。乗り物や道が整備された現代とは違い、旅そのものが命懸けだった時代になぜ人々は旅に魅了されたのか? それは日本という四季に恵まれた気候と、山紫水明の言葉にふさわしい美しい風景に心躍らせる人々が多かったからに違いない。
 さて、世界史の中でほとんどの国の物語は、神話から始まり人間の歴史へと移り変わって行く。これは日本でも同じなのだ。
 神話と歴史が混沌として混ざり合う時代に、日本神話の最後のヒーローであり、歴史の早い段階での有能な政治家ともいえる人物が聖徳太子ではないだろうか? 現在では聖徳太子という人物の実在性が疑われ、厩戸皇子という実在の人物をモデルにした架空の存在であったともされていて、歴史の教科書から聖徳太子の名前が消え厩戸皇子の名前で業績が紹介されることもあるらしいが、これこそが神話と歴史の混ざった場所で生きた人物に新しい伝説を添えているようにも思えてくる。
 そんな聖徳太子は、多くの地方に行った伝承があり、その地で仏像や遺物や伝説を残したのだ。もちろん近江にも聖徳太子手彫りの仏像や所縁の地は多く存在する。
 ある伝承では、聖徳太子は推古天皇の御代に近江に赴いて霊験あらたかな地を探し伽藍を創るための旅をしたとされている。その時に、近江産の駿馬に乗って候補地を探したと伝えられている。当時の近江は立派な駒場であり、地元の駿馬に導かれながらより良い場所を探す気力に溢れていたのかもしれない。馬はその期待に応えるように繖山まで聖徳太子を案内し動かなくなった。太子は馬を近くの松の木に繋いで山に登ると、吉兆の兆しである瑞雲が表れたので、大いに喜んで繖山に伽藍を建立することを決めた。そして山を下りて馬の所に帰ると、馬は傍らの池に沈んで石となってその場に留まる意思を示した。このことから太子自らが石馬寺との寺号を定めその文字を木額として残したのだ。
 聖徳太子が建立し大きな繁栄を迎えた石馬寺だが、やがて織田信長の元亀争乱に巻き込まれ昔日の繁栄を失うこととなる。しかし『信長公記』には天正八年三月下旬に信長が石馬寺に銀三十枚を下賜したとの記録が存在する。信長に伽藍は焼かれたとしても、信長の時代にも同じ場所で残り続け、やがて徳川家光に伊庭御茶屋御殿の茶室を下賜されて本堂とし再興した。現在まで聖徳太子とその馬が選んだ地に石馬寺があり、約三百段の石段を登る前に池に沈んだ石の馬を見ることができる。
 余談だが、私も旅行先で不思議な体験をしたことがある。奥州平泉の毛越寺を訪れたとき、庭園に入った途端に「ここから離れたくない」との感覚にとらわれ、ゆっくりと散策した後に後ろ髪を引かれながら帰ろうとすると、晴れていた空から急に雨が降り出したのだ。時間にして一秒か二秒の短い時間の出来事だったが、滋賀の地に残したものが何もなかったら、この雨を理由に平泉に留まったと思う。聖徳太子の馬は私と同じ想いからそれを貫いた強さがあったのかもしれない。

 

編集部

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