湖東・湖北 ふることふみ6
前田慶次が渡った琵琶湖(1)

このエントリーをはてなブックマークに追加 地域: 彦根市 2015年2月11日更新

慶次も同じ風景を400年以上前に見た「沖島付近から多景島を遠望」

 平成27年4月から晩年の前田慶次をモデルにしたドラマが放送されるらしい。今でこそ誰もが知っている戦国武将の一人となった前田慶次だが、昭和の頃はほとんど知られていない存在だった。そのために、前田慶次の史料はきわめて少ない。しかし、関ヶ原の戦いの翌年に京都から米沢までの旅を紀行文にまとめた『前田慶次道中日記』が現存し今に慶次の人柄を伝えている。

 平成25年11月、『前田慶次と歩く戦国の旅』(洋泉社)の著者である今福匡さんの取材に同行し、私も道中日記の一部を追体験した。

 『前田慶次道中日記』の記載では、慶次は慶長六年(1601)10月24日に伏見から大津打出浜に出て舟に乗り、堅田で上陸し一泊している。東海道や東山道(中山道)といった陸路ではなく琵琶湖上に出たのだ。関ヶ原の前哨戦である大津城の戦いで大津の街は焼け野原になっていて、そこには彦根城に移築される前の大津城天守が傷だらけの状態で建っていた筈だが、その姿を観たはずの慶次はそれらの政治的な事柄を記さなかった。「大津より湖水に舟をながせば、さゞなミや、」と記したのちに慶次自身が選んだ近江の名所を羅列し、堅田では老亭主との話を残している。
 翌25日、堅田を出て風に乗り湖西から湖東へと進んだ舟は、沖島と長命寺山の間と思われる「弁財天嶋の世渡」を過ぎた。
 沖島を越えると、遠くに多景島が幻想的に浮かびあがるように見えるが、慶次はそのことには触れていない。そして舟が目印とするのは荒神山になる。その荒神山の手前にある薩摩港に慶次は上陸し「さつまといふ在所にふねをよせ、餉(かれい)のために休らふ、里の名をさつま也といへバ、舟ハたゞのりにせよ、」と書き記した。薩摩港に上陸し軽い食事(餉)を済ました後、薩摩という地名から平薩摩守忠度(ただのり)を連想させ、「舟賃はただにせよ」と冗談を言っているのだ。しかし忠度はここでいきなり登場するのではなく、大津を出たときに記した「さゞなミ」が、忠度の和歌である「さざなみや 志賀の都はあれにしも むかしながらの山桜かな」に重なるようになっている。この両方を活かすために慶次はあえて薩摩港のエピソードを入れたと考えられ、教養と冗談を一緒に楽しむ高度な技術を持っていたことが証明される。
 舟の上で、晩秋か初冬の冷たい風を受けながら、酒を飲みつつ筆を持ち、想いのままにいろいろ書きとめる。そして教養たっぷりの薀蓄を語りながらも冗談に花を咲かせ時には周りを驚かせる。琵琶湖の上をそれほど大きくはない舟で渡りながらも、体いっぱいに琵琶湖を体感している前田慶次の姿がありありと見えてくる気がした。

 

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